「瞬。また、ここに来ていたのか? いい加減で放っておいた方がいいぞ。1週間すれば出てくると氷河も言っていたし、これでは、氷河を案じている おまえの方が身体を壊してしまう」
これが本当に氷河×瞬のラブストーリーなのかと疑ってしまいそうなほど、紫龍の出番が多い。
通りすがりの紫龍に声をかけられた瞬は、顔をくしゃくしゃにして、まかり間違うと嗚咽になりかねない声で、この状況の理不尽を紫龍に訴えた。
「だ……だって、氷河ってば 変なんだもの! いつもの氷河じゃないんだもの! つ……ついこないだまでは、僕がジョギングするのにも、ちょっと買物行くのにもついてきてくれて、僕が氷河以外の誰かといると、それだけですぐ拗ねて、駄々こねてくれてだのに! こんなに長い間 僕を一人にしておいたことなんてなかったのに……!」
「そうだな。気が付くと いつもおまえの背後霊をしている奴だったな」

同情に耐えないというように、紫龍がおもむろに頷く。
瞬は瞬で、これ以上言いたいことを胸の内に収めておくことには耐えられないと言わんばかりの勢いで、堰を切ったように氷河への非難を始めてしまっていた。
「氷河なんてひどい! 自分がそうしたい時だけ 僕のこと独占したがって、僕が側にいてほしい時には側にいてくれないなんて……!」
「うむ。実に全くひどい奴だ」
紫龍が 瞬の非難に同調し、再度 瞬に頷き返してくる。
否、紫龍の その言葉は、瞬への同調というより、部屋の中に閉じこもっている男を責めるためのものだったろう。
それは ひどく聞えよがしな響きを帯びていた。
瞬は、だが、そんな紫龍の様子を奇異には思わなかったのである。
その時、紫龍同様、瞬もまた、紫龍ではなく、ドアの向こうにいる金髪男に向かって、切ない訴えを訴えていたから。

「僕のこと嫌いになったのなら、はっきりそう言ってくれればいいのに! どうして、どこが、どんなふうに嫌いになったのか言ってくれれば、僕だって、氷河の嫌いなとこ直すために頑張るのに! こんな一方的に僕のこと避けるなんて、僕、どうすればいいのかわからないのに……!」
「全く本当に勝手な奴だ。あれほど毎日 飽きもせず懲りもせず四六時中、瞬、瞬、瞬と騒いでいたのに」
紫龍のその言葉も もちろん、瞬を慰めるためのものではなく、ドアの向こうの男の神経を逆撫でするためのもの。
効果は覿面、即座に ドアを震わす勢いで 氷河の憤怒の叫びが、瞬と紫龍の許に飛んできた。

「紫龍! 貴様は黙ってろっ! 瞬、誤解だぞっ! なぜ この俺が おまえを嫌いになったりしなければならないんだ! 俺は いつだって、今だって、おまえのことしか考えていない! 実際、おまえ以外の人間がどうなろうと、そんなことは 俺には全く関係のないことだ。おまえは俺の生きる目的のすべてで、おまえがいるから俺は生きていられるんだっ!」
過剰にクサく大袈裟な物言いは、氷河の身についた癖である。
本気ともジョークともとれるその大仰な言い回しは、いつも瞬の心を和らげるのに絶大な効果を持っていた。
「なら、氷河、ここを開けてっ! 僕、これ以上 氷河に会えないでいたら 死んじゃうよっ !! 」
平生の氷河らしい物言いを聞かされて幾分 力づけられた瞬は、一層熱を込めて、氷河に懇願したのである。
だというのに。
それでもやはり、氷河の答えは冷たいままだった。

「瞬、聞きわけてくれ。それだけはできないんだ」
「氷河……!」
いったい どうすれば、何と言って説得すれば、氷河は岩戸ごもりをやめてくれるのか。
なぜ 氷河は 突然 こんな おかしな真似を始めたのか。
瞬にはもう 何が何だか わからなくなってしまったのである。
「氷河の嘘つきっ! 氷河、いつも、僕の言うことなら何だってきいてやるって言ってたのにっ! 僕が寂しがってたり悲しがってる時には、いちばんに慰めてやるって言ってたのにっ! 僕がそれ望んだら、太陽だって凍らせてみせるって言ってたのに! あれ、全部、ベッドで僕を大人しくさせるための嘘だったのっ !! 」
「瞬……。おまえ、少し冷静になれ」

他に、効果的な説得の言葉が思いつかず、つい 寝室での内情を口走ってしまった瞬の様子を見て、紫龍が さすがに眉をひそめる。
瞬は一応、『地上で最も清らか』を売りにしているキャラ、言ってもいいセリフと言ってはならないセリフというものがある。
何よりそれは、恥知らずに人前でも大胆に絡んでくる氷河を、いつも さりげなくたしなめていた瞬の言うセリフではない。
紫龍は そんなふうに思っているに違いなかった。
しかし、瞬の混乱は それほど――あえて その禁忌を冒さずにはいられないほど――大きく深いものだったのだ。
「だ……だって、氷河ってば、ひどいじゃない……!」
紫龍に冷静になるよう促されても、瞬はなかなか落ち着きを取り戻すことはできなかった。
そうするのには、かなりの時間を要した。
そして、なんとか冷静さを取り戻した時、瞬は、優しかった恋人をその手に取り戻すために、最終兵器の使用を決意していたのである。

「僕、泣く」
唇を噛みしめ、きっぱりした口調で宣言した瞬を見て、紫龍は肩をすくめた。
「ついに 核のボタンを押すというわけだ」
ネビュラストリームよりネビュラストームより、それは はるかに強大な、瞬の武器である。
その武器を突きつけられた氷河が 瞬に抗し続けることができるのかどうか。
その成り行きを、紫龍は非常に興味深く思っているようだった――案じているようだった。
「紫龍、あっち行ってて。僕、これから いっぱい泣くんだから」
「そうはいかん。それでも氷河が出てこなかった時、おまえを慰めてやらなければならないからな」
「……」

紫龍の親切に――親切なのだろう――、瞬は ひどく傷付いてしまったのである。
そんなことがありえるのだろうか。
氷河が、それでも恋人の望みを叶えてくれないなどということが?
毎日毎日飽きもせず、聞いている瞬の方が気恥ずかしくなるほどクサく甘く、気障ともとれるような言葉を雨霰と降り注いで、瞬に絶対の愛と誠実を誓っていた氷河が──?
もちろん瞬は、言葉は言葉でしかないということは十二分に承知していたし、そんな言葉に惑わされるほど恋に盲になっているつもりもなかった。
だが、少なくとも、氷河自身が それらの囁きを いつの時でも極めて真面目に、完全に本気で 言っていることが わかっていたから、瞬は氷河の言葉の奥にあるものだけは固く信じていたのである。
(だって氷河は、僕が泣いてる時に僕を慰めるのは、氷河だけの義務で権利だって言ってたもの。僕が泣いてたら、地球の裏側からだって飛んできて慰めてやるって言ってたもの。そうすることを名誉にかけて誓うって言ってたもの……)

しかし、それでも やはり、氷河が部屋から出てきてくれなかった時、いったい自分はどうしたらいいのか──。
その可能性に思い至った途端、瞬の瞳から涙が一粒 ぽろりと零れ落ちた。
一度零れ落ちてしまうと、それは もはや止められない。
後から後からぽろぽろと零れ落ちてくる涙のせいで、瞬の目には、自分と氷河とを隔てているドアも霞んで映るようになってきていた。
「氷河、出てきてよ。僕、こんなの、やだ。氷河、どうしてこんな意地悪するの……」
涙声で訴えても、だが、瞬の懸念通り 氷河の部屋のドアは開かれなかったのである。
衝撃と悲しみのあまり、瞬の胸は、冗談でなく本当に潰れてしまいそうだった。
氷河に こんな冷たい仕打ちを受けることがあろうなどとは、瞬はこれまでただの一度も考えたことがなかった。
あまりといえばあまりな事態に直面し、瞬は泣きながら氷河の部屋のドアの前に へたり込んでしまったのである。
紫龍が、瞬のその様子を見て溜め息をつく。
そうしてから彼は、へたり込んだ瞬の前に片膝をついて、瞬に囁いてきた。

「俺が氷河を外に引きずり出してやろうか?」
「え?」
瞬は、涙をためたまま、その瞳で紫龍を見あげた。
最終兵器である自分の涙をもってしても不可能だったことを、いったいどうすれば紫龍に成し遂げることができるというのだろう? 
涙を載せた睫毛を幾度も瞬かせて、瞬は、自信満々でいる紫龍を まじまじと見詰めてしまったのである。
紫龍は唇の端を歪めて、瞬に笑ってみせた。
「それでも氷河が出てこなかったら、氷河は おまえより自分のプライドの方を大事にしているということだから、その時には、おまえ、さっさと氷河を見限った方がいいぞ」
低い声で瞬に囁くと、紫龍は今度は氷河の部屋のドアに向かって大きな声を張り上げた。

「氷河! これでは瞬があまりにかわいそうだから、これから 俺がおまえの代わりに瞬を慰めてやる。ありがたく思えよ!」
「な……き……貴様、何をするつもりだっ !? 」
それまで瞬の哀願にすら沈黙を守っていた氷河が――その声が、急に慌てた響きを呈し始める。
対照的に紫龍の声は、わざとらしいほど のんびりしたものだった。
「わかりきったことを訊く奴だな。おまえならこういう時 どうやって瞬を慰めてやるんだ? 俺ももちろん同じ方法で慰めてやるさ」
「馬鹿なことを言うなっ! 俺はそんな不埒な真似はせんぞっ! 貴様、瞬に触るんじゃないっ!」

氷河は平生から 瞬に 余程 不埒な真似をしているものらしい。
氷河の失言に、紫龍は含み笑いを洩らした。
「おまえの言う“不埒な真似”がどんな真似なのかは知らないが、俺がしようとしていることは、決して不埒な真似などではないぞ。ただ、まあ、目の前でこんなふうに瞬に泣かれると、俺も つらいし、瞬が哀れでもあり、気の毒でもあり、頼りなさそうで可愛らしいなーと感じもするし、なにやら そそられるものがあるなーとも思うわけだ、うん」
「ばっ……馬鹿者っ! 俺の瞬をそういう目で見るんじゃない、この罰当たりがっ! 瞬っ、おまえも早く自分の部屋に戻れ! 人前で泣くなと、いつも あれほど言っていただろうがっ! おまえが泣き出すと、泣かれた方は妙に もやもやしてくるんだっ!」

瞬の懇願にも一向に頑なな態度を崩そうとしなかった氷河が、紫龍の見え見えの挑発を受けて ドアの向こうでバタバタ騒ぎ、ぎゃあぎゃあ 喚き始めたのに、瞬はしばし あっけにとられてしまったのである。
氷河は、恋人が涙することより、その恋人を他の人間に構われてしまうことの方が重大事で大問題だとでもいうのだろうか? 
つまり、恋人の涙より、自分自身の既得権益を他者に侵害されることの方が?

あまり認めたくはないが、認めざるを得ない事実である。
瞬は氷河のその言葉に 大いに傷付き、傷付きついでに開き直ってしまったのだった。
「氷河!」
涙を拭って 氷河の部屋のドアの前にすっくと立ちあがり、瞬は、ドアの向こうにいるはずの氷河に力強く宣言した。
「今から10数えるうちに 氷河が外に出てきてくれなかったら、僕、氷河に教えてもらったうちで いちばん難しくて、いちばん面倒で、いちばん複雑で、いちばん長くて、いちばん濃厚なキスを紫龍にしちゃうからねっ! 氷河なんて、もう知らないっ! 大っ嫌い !! 」
瞬の大胆不敵な最後通牒は、氷河を究極にまで 慌てふためかせることになったらしい。
ドアの向こうで、氷河は、ゴ○ブリホイホイに捕われたゴキ○リの断末魔の悲鳴のような声を響かせた。
「瞬っ! 馬鹿なことはやめろっ! 俺は紫龍なんぞのために、あんなことをおまえに教えてやったんじゃないっ。やめてくれっ !! 」

ゴキブ○のたわ言を無視して、瞬が数を数え始める。
「いーち、にーい、さーん」
ドアの向こうでは何やらドタバタ音がするのだが、氷河はなかなか姿を現わさない。
どうやら彼は、自分が内側から凍結させたドアを開けることができずに、悪戦苦闘しているようだった。
「しーい、ごーお、ろーく」
なにしろ あの宝瓶宮、黄金聖闘士のカミュをすら しのいだ凍気と小宇宙で凍りつかせたドアなのである。
「しーち、はーち、くーう」
氷河当人にも、その頑強な凍気を霧散させるのは至難の技であるらしかった。
「じゅー」
「うおおおーっ !! 」

瞬が『じゅーう』の『う』を言い終わる直前に、大地を揺るがすような雄叫びと共に、窮地の○キブリは強固なゴ○ブリホイホイの壁をぶち破った。
自らの人生における最大の危機の前に、氷河は、正攻法でドアを破ることを諦め、自室の破壊の方を選んだらしかった。
凍結されたドアだけが以前の姿を保ち、そのドアの周りに崩れ落ちた壁が瓦礫の山を築く。
もうもうと立ちこめる土埃の中に、某氷雪の聖闘士の姿が ぼんやりと霞んでいた。






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