「瞬の部屋から ご帰還か? なんだ、いつもこんな時間なのか?」
瞬の部屋を出た氷河が自室のドアに手をかけた途端、ふいに廊下の端から紫龍の声が降ってきた。
どうやら紫龍の方は 邸外からの“ご帰還”らしい。
階段を上がってきた彼の右手には、薄手の上着が握られていた。

「……いつもより少し遅い」
氷河が素っ気なく答える。
紫龍は意味ありげな笑みを浮かべたが、氷河は彼に、照れた様一つ、愛想笑い一つ見せなかった。
味気のない その態度に、廊下の薄明りの下で紫龍が両肩をすくめる。
せっかく からかってやったのだから、やはり気まずそうな態度の一つも示してほしかったのである、紫龍は、氷河に。
ことさら隠しだてしようとしているわけでもないらしかったが、宣言して することでもない。
実際に気付いている者の有無はともかく、氷河と瞬の関係は、仲間内でも、いわば非公式のもの――ということになっていたのだ。
今夜こうして、逢引き帰りの氷河が 紫龍にその姿を見咎め(?)られるまでは。

「『おまえも逢引きの帰りなのか』とか『眠れないのか』とか、せめて『こんな夜更けにどうしたんだ』くらいのことは 訊いてほしいんだが」
紫龍がささやかな要望を口にすると、氷河は面倒くさそうに、そして、まるで抑揚のない声で、紫龍の答えを紫龍に代わって紫龍に手渡してきた。
「『妙に目が冴えて眠れないので散歩をしてきた。今夜は星が綺麗だぞ』」
「――よく わかったな。夜空を見あげる風雅の心の持ち合わせが、今夜のおまえにあったとも思えんが」
「瞬がそう言っていた」
「ああ、瞬がね」

それなら わかる――と言うように、紫龍は顎をしゃくった。
そうしてから 彼は、この際だからと、ちょっとした素朴な疑問を氷河に投げかけてみたのである。
「なぜ 毎晩 いちいち自分の部屋に戻るんだ、おまえは。朝まで瞬の部屋にいたところで、どこから文句がくるわけでもないだろう。瞬が追い出すのか、それとも」
「いや」
そんな質問に答える義務はないと言わんばかりの態度で、氷河が自室のドアを開ける。
そのまま 室内に姿を消しかけたのだが、途中で気が変わったらしく、氷河は、廊下の端に立っている紫龍に、もう一度 視線を巡らせてきた。

取りつく島も 可愛げもない友人の様子を、紫龍は半ば諦めたような顔をして眺めていた。
そんな紫龍に、氷河が低い声で告げてくる。
「瞬は温かくて、やわらかくて、側にいると ひどく心地がいい。朝まで一緒にいると錯覚する」
「錯覚?」
「俺は瞬を愛していて、瞬は俺の守るべきものだ、とな」
「……」
氷河は、常々自分の内にあった思いを言葉にしてみたかっただけらしい。
彼の口調は、意見や答えや、否定や肯定を期待している者のそれではなかった。

「そうではないのか? まあ、守る――というには、瞬は 少しばかり強すぎるような気もするが」
冗談めかして笑う紫龍とは対照的に、氷河は変わらず不愛想である。
「そんなものを、聖闘士は持っていない方がいいだろう。いつ死ぬか わからない者が愛していいのは、死んでしまった人間だけだ。生に未練があると弱くなる」
「……そういうものかな」
異論がないわけではなかったのだが、紫龍は氷河の主張に口を挟もうとはしなかった。
氷河の金髪の向こうで、瞬の部屋のドアが細く開けられたのに気付いたから。
ここでへたに言い争いなどして、瞬を傷付けるようなことを氷河に言わせるわけにはいかない。

「さっさと寝た方がいいぞ。明日は聖域だろう」
「ああ」
都合良く氷河がそう言い出してくれたので、紫龍はその忠告に従う振りをして、それまで肘をつき身体を傾けていた階段の手擦りから身体を離した。
紫龍が自室のドアに辿り着くより先に、氷河の姿が彼の部屋の中に消えていく。
紫龍は自分の部屋のドアをやりすごし、先程気付いた瞬の部屋のドアの隙間の前まで歩を進めた。
盗み聞きを隠す様子もなく、瞬が細い隙間の向こう側で、夜の散策から帰ってきた友人を見あげてくる。

「僕は……僕は、愛する人や 守るべき人や――未練や後顧の憂いをたくさん持っている人の方が、孤独を気取る人間よりずっと強くなれると思ってるんだけど、紫龍はどう思う?」
氷河の主張よりは、ずっと賛同しやすい言葉である。
紫龍は瞬に頷いてみせた。
「同感だな。未練のない者は、たやすく死に身を任せる」
「うん……」
噛みしめるように低く呟いて、瞬は心配そうに、固く閉じられた氷河の部屋のドアに視線を向けた。

夜の静寂と、そこかしこに うずくまっている暗闇が、不実とも取れる氷河の言葉を責めることもできないほど、瞬の不安を深いものにしているらしい
紫龍にも、瞬を慰めるための適切な言葉は思いつかなかった。
が、瞬がそんなものを必要としていないことも、彼には わかっていた。
その内に、兄やら恋人やら友人やらと愛する者を何人も抱えているせいで、瞬は並はずれて強く、そして賢明なのだ。
紫龍は、瞬を励ます――などという不要な行為に挑戦する愚を犯しはしなかった。
代わりに、ごほんと一つ咳払いをして、彼に告げる。

「瞬。そういう格好をしていると風邪をひくぞ」
「え……?」
瞬は、氷河の“ご帰還”に気付いて 慌ててローブを羽織り、ベッドを抜け出してきたものらしい。
彼は、正しくローブを羽織っただけの姿で、そこに立っていた。
今更という気もしたが、瞬が急いでローブの前を閉じ、それから上目使いに彼の愛する友人その一を見あげ、尋ねてくる。
「……見た?」
「見えた」
「……」

瞬はしばらく何やら考え込む素振りを見せていたが、やがて顔をあげると、ことさら真剣な表情を作って紫龍に忠告を垂れてきた。
「氷河には言わないでね。紫龍が こんなの見て喜んでたなんて、氷河に人格疑われるようなことになったら、僕、つらいから」
「気遣い、いたみいる」
優しい瞬の心遣いに感謝して、紫龍は瞬の前から辞することにした。
明日は聖域に発つことになっている。
ここで 呑気に口止め料の相場について、瞬に説明を始めるわけにはいかなかった。






【next】