その日の午後。 ブラックたちが出払って、氷河がいつものお仕事に取りかかろうとした時、瞬の探偵事務所に一人の来客があった。 グラード損害保険専務取締役という地位にありながら、どこか柄の悪い中年男――前野社長殺害の嫌疑をかけられている四人の中の一人、蟹江増句氏である。 アポイントメントもなしに訪れた突然の来客に驚きつつも愛想良くお茶を出した瞬と、偉そうに安楽椅子探偵(助手)を決め込んでいる氷河の前に、彼は小型のレコーダーを持ち出した。 「なにやら俺の身辺を嗅ぎまわっているようだが、今日限りで手を引いてもらうぞ。――でないと……」 出されたお茶の礼も言わず、自己紹介もなしに唐突に用件に入った蟹江氏は、そう言うなり、レコーダーのスイッチを入れた。 途端に、実に悩ましげな音が室内に響く。 『や……やだ、氷河……また、こんなとこで……あっ……あっ……だめ……そんなとこ……』 聞き憶えのある声に、瞬の頬が真っ赤に染まる。 トレイを抱え込むようにして言葉もなくその場に立ちつくし、瞬は、下卑た笑みを浮かべる蟹江氏を見おろした。 その視線を楽しそうに受けとめて、蟹江氏がソファで脚を組み直す。 「この事務所は、グラード財団総帥の個人的判断で資金が供与されているそうじゃないか。浮いた噂ひとつない、あの潔癖症の総帥に、このテープを聞かせたらどうなるか…」 「3日前の午後2時5分過ぎ、事務所の入口の横の花をいけ変えようとしていた瞬にちょっかいを出した時の、だな」 蟹江氏の脅迫を遮って、氷河が告げる。 蟹江氏はあきれた顔になった。 「よく分かるな。毎日毎日飽きもせず同じことをしてやがるのに。――その通り。これは4日前の夜、ビル清掃会社の社員を買収して仕掛けた盗聴器で盗聴した、3日前の記録だ」 「飽きるわけがないだろう。瞬は毎日違うからな、声も感じ方も身体の反応も」 恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言う氷河の分まで、彼の横で瞬が恥ずかしがっていた。 蟹江氏も氷河もレコーダーのスイッチを切ろうとしないので、瞬の喘ぎ声はいつまでも続いている。 「ひ……氷河……それ、スイッチ切って……」 たまりかねた瞬の懇願を聞いているのかいないのか、氷河は委細構わず偉そうに講釈を続けた。 「しかし、惜しむらくは、音質が悪い。できることなら瞬の生の声を聞かせてやりたいもんだ。もったいなくて聞かせる気にはなれないが、瞬のあの時の生の声は、こんなテープの録音なんかよりずっとそそるものがあるぞ」 「氷河。そんなことはどうでもいいから、スイッチ切って…!」 このまま音を流し続けていると、まもなく最初のクライマックスに達してしまう。 だが、瞬は、自分では到底そんなものに触ることができそうになかったのだ。 「早く切って! 早く!」 間断なく悩ましげな音を発し続けているその機械を遠巻きに見詰めながら、瞬はひとりであせりまくっていた。 瞬とは対照的に泰然と構えた氷河が、やっとそのスイッチに手を伸ばす。 「そう、せかすな。この時と同じだぞ。3日前も、おまえは確か『早く』を5回も言った」 「氷河ーっっ !! 」 悠然としすぎている氷河に、ついに瞬が切れる。 怒髪天をついて大声をあげた瞬に、氷河は素早く反応した。 悩ましげな瞬の声が、ぷつっと途切れる。 瞬がほっと安堵の息を洩らし、氷河は少し残念そうな顔をした。 「マスターテープは別にあるんだろ? このテープはここに置いていけ。貴様の脅迫は脅迫として受け止めて善処することにする」 「氷河!」 瞬が氷河をなじったのは、彼がこんなテープに食指を動かすことに対してであり、また、彼が蟹江氏の脅迫に屈することに対してでもあった。 こんな卑劣な手で脅してくるからには、蟹江氏には後ろめたいところがあるに違いないというのに。 だが、氷河は、瞬の不満顔を見て見ぬ振りをして、機嫌よさそうに蟹江氏を事務所から送り出してしまった。 「よかったら、昨日の分と一昨日の分もダビングしてもらえると嬉しい。あとでこの事務所宛に送ってくれ」 とか何とか馬鹿げたことを言う氷河を、瞬は半ば茫然と見詰めていたのである。 それは、氷河の口にする言葉とも思えなかった。 瞬の知っている氷河は、清廉潔白な正義漢というのではなかったが、自分の価値観には忠実で、自分にとって価値があると認めたものに対しては執着心が強く、その独占欲もまた尋常でないほどに強かった。 人に命令されたり指図されたりするのが嫌いで、まして、脅迫など、その脅迫に屈するなど、瞬の知っている氷河のすることではなかったのだ。 なごやかな表情で蟹江氏を送りだし、そのドアを閉じた途端、しかし、氷河の顔は一変した。 一言も言葉を発さず、電話と壁に掛けられた絵の額の裏から盗聴器を外すと、手の中で握りつぶす。そうしてから、彼は、事務所を出払っていたブラックたちの携帯電話に檄を飛ばした。 「おい、おまえら! 他の三人の嫌疑は晴れた。専務の蟹江を徹底的に探れ。秘密裡にな。どんな弱みでも細大洩らさず報告しろ!」 怒鳴るように命じるだけ命じると、乱暴な音を立てて受話器を置く。 「こんな真似をしでかして、ただで済むと思うなよ。あの蟹ジジイめ!」 切れた電話に向かって、氷河が忌ま忌ましげに毒づく。 その言葉を聞いて、瞬はほっと短い息を洩らした。 「氷河。じゃあ、あの人の脅迫に屈したりしないんだね」 「あ?」 瞬に尋ねられた氷河は、軽く肩をすくめ、薄く微笑ってみせた。 「屈する必要がないだろう。だいいち、放っておくと何をしでかすか分からない俺に、良識派のおまえを番犬につけたのは、他ならぬあのお嬢様だぞ。あんなテープ聞かされたら、聞かせた相手にまず嫌悪感を抱く。お嬢様の潔癖さはそういう方向に動くようにできているんだ。そんなことも知らないで、こういう脅迫に及ぶ奴が馬鹿なんだ。まして、その脅迫のネタが――」 ふいに氷河の目が険しくなる。 「俺以外の誰も聞いてはならないものを盗んだとあれば、あの馬鹿も殺されたって文句は言えないだろう」 殺気だった眼差しでにこやかに言う氷河に、瞬は一瞬背筋が凍りついた。 「氷河……あの……でも、まさか、ほんとに殺したりしないよね?」 「……」 きっちり10秒間沈黙してから、氷河は瞬にやわらかな微笑を向けてきた。 「もちろんだ。ただ、奴が前野社長を殺したのなら、それ相応の社会的法的制裁を受けるのは当然のことだろう?」 氷河の見せた10秒間の沈黙が、瞬はひどく恐ろしかった。 |