アンドロメダ島の夜は、月のそれのように寒い。 そして、その光景は星の界のように美しい。 だが、その寒さも美しさも、今の瞬の身体にも心にも作用することはなかった。 まるでこの島だけを照らすように、間近に見える明るい月。 沖では夜光虫が水平線の果てにきらきらと不思議な光を放っている。 魔法のように明るく、凍えるほどに冷たい島の夜。 瞬は砂浜にうずくまり、一人で泣いていた。 堪えきれない寂しさが、瞬の涙を止めてくれなかった。 瞬自身の、ではなく、強く優しい兄の寂しさが瞬を苛む島。 城戸邸のいじめっ子たちをすら懐かしく感じさせる島。 この島にやってきて、まだ一週間しか経っていないというのに、瞬はもう、この島に悲しみをしか感じられなくなっていた。 金色の髪をした優しげな白銀聖闘士が、最初の日に、この島の残酷なシステムを瞬に教えてくれた。 アンドロメダの聖衣を手に入れるためには、自分を強くするだけではなく、仲間を倒さなければならないのだ、と。 共に苦しい修行を重ねる仲間を打ち倒して初めて、聖衣は瞬のものになるのだと。 瞬にしてみれば、それは努力でどうにかできる類の試練ではなかった。 生きて再び兄に出会うためには、他人を傷付けなければならない――。 瞬は、この島での修行そのものより、その修行の果てに待つ仲間との闘いこそが恐ろしくてならなかった。 人を傷付け倒すことと、兄との約束を守れないこと。 そのどちらがより辛いことなのかさえも分からないことが、瞬の涙を誘うのだった。 幾つめかの涙が瞬の膝に落ちた時、だった。 「何がそんなに悲しいんだい?」 ふいに頭の上から、暖かく包み込むような響きの声が降ってきたのは。 瞬が仰ぎ見ると、そこに、背の高い一人の男の影があった。 月と海を背にして瞬の顔を覗き込むようにしているので顔立ちは判然としないが、その髪が月光と陽光が入り混じったような色に輝いている。 この島に、光輝く髪の男性は師アルビオレしかいないはずなのだが、彼の声は師のものではなかった。 年齢も体格も師と大差なく、鍛え抜かれた成人男性のそれである。 しかし、服装は白いYシャツ一枚。到底この島の極寒の夜を耐えられるものではない。 この島の生活に慣れた者なら、決してそんな恰好でこの島の夜に身を任せることはしないだろう。 「あなた、誰? そんなでいると風邪ひいちゃうよ」 瞬が気遣わしげに言うと、彼は薄く微笑んだようだった。 「瞳をそんなに涙でいっぱいにしているのに、他人の風邪の心配かい? 君の方が余程凍えているようだ。俺は……俺は寒くはないんだよ」 「でも……」 この島は誰もが寂しさに凍える場所なのに――そう反駁しかけた瞬の頬に、その人の右の手がそっと触れた。 「俺のことは心配しなくていい。俺は君のおかげでいつも温かいから……。――頬は冷たいのに、君の涙は暖かいね。自分のための涙ではないから…かな…」 「……」 瞬の頬に触れたその人の手は暖かくも冷たくもなく、まるで体温がないようだった。幻だからなのかもしれない――と瞬は思った。 「さあ、立って、風を防げる場所で眠りなさい。そうしないと心より先に身体を壊すよ。兄さんとの約束を守りたいんだろう?」 そう促され、瞬は彼の腕に支えられるようにして立ちあがった。 瞬を見詰める瞳が、ひどく優しい。 月の光しかない夜の中で、その瞳はやはり闇の色に見えた。 彼の瞳が実際にどういう色をしているのかを見極めるのも難しいのに、その眼差しが穏やかで優しいことだけは何故か感じとれる。 そして、彼の視線の暖かさに、瞬は罪悪感を覚えた。 「僕、兄さんとの約束はきっと果たせない……。僕は聖闘士にはなれないまま、ここで死んじゃう」 「そんなことはない。君の中には、誰も敵わないほどの――計り知れない力が眠っている」 冷たい夜の砂浜で震えるように身体を丸めていた弱々しい小さな子どもに、どんな根拠があってこの人はそんなことが言えるのか――瞬には分からなかった。 きっとこの人は、自分が強くて迷いのない大人だから、自分がそういう大人になれたから、全ての子どもには大きな可能性が秘められているのだと気楽に信じているのだ。 瞬は、そう思った。 「だとしても――僕、強くなんかなりたくないの……」 反論するつもりではなく、呟くように瞬はぽつりと言った。 優しい瞳の人が、また微笑む。 「しかし、君は強くなってしまうんだよ。君は優しいから…。俺は君に会うまでは、そんな強さが存在することすら知らなかった。…君は優しくて暖かで辛抱強くて、他人のために涙を流すことができる。それが君の強さなんだ」 「……」 瞬は、この男の人に会うのは、これが初めてだった。 瞬を昔から知っているような彼の口調に、瞬は首をかしげたのである。 「あなた、誰」 「分からない?」 「誰かに似てる……。アルビオレ先生にも似てるけど……もっと別の――」 微かに眉根を寄せた瞬の髪を、彼はふわりと撫でた。 「ゆっくり思い出してくれ。急ぐことはない」 瞬の髪に触れた手を、そのまま瞬の肩に移し、彼はまるで壊れ物を抱くようにそっと、瞬の細い身体を自分の方に引き寄せた。 瞬の身長は、彼の腰のあたりまでしかない。 「君がここで挫けてしまうと、俺は不幸になるんだ。だから耐えてくれ……。今のままでいればいいだけだ。迷いさえも、おまえの強さだから」 「え?」 彼の言葉使いの変化に引っ掛かって、瞬がふっと顔をあげた時、そこには風と月の光があるばかりだった。 優しい目と声と光輝く髪の持ち主は、幻のように消えてしまっていた。 「どこ……? どこ行ったの……?」 その優しい声をもう一度聞きたくて、彼の名を呼ぼうとした瞬は、だが、彼の名を聞いていなかったことに、今になって気付いた。 体温すら感じさせない人だったのに、彼の手の置かれていた肩のあたりが、まだほのかに暖かいような気がする。 翌日、瞬はアルビオレやジュネに彼のことを尋ねてみたのだが、彼らの答えは『夢でも見たんだよ』というものだった。 ――瞬が想像していた通りに。 それから、6年、瞬は彼に会うことはなかった。 |