(僕が決意しさえすれば、僕は兄さんとの約束を果たせるのに……)
師や仲間たちから隠れるように、瞬は島の東側の岩の陰に座り込んでいた。
太陽は中天にある。
6年間をこの島で過ごした瞬は、肌を切るような夜の寒さにも、肌を刺すような昼の暑さにも慣れてしまっていた。
肌はこの島に来た時のままに白かったが、身長も手足も伸び、その分だけ瞬も大人になったはずだった。

だというのに、考えていることだけは6年前も今も変わらない。
兄との約束を守りたいという思いと、仲間と闘いたくないという気持ち。
その二つの間で板挟みになり、瞬は溜め息をつくことしかできずにいた。
何度目かの溜め息を洩らした拍子に、ぽろりと涙が零れる。

人と闘い、その闘いに勝つことでしか願いを叶えることができないというのは、なにもこの島の内だけに限ったことではないのだろう。
人間が生きていくことは、そのまま闘いでしかないのかもしれない。それは分かっていた。
分かってはいたが、瞬は、そんな人世というものが悲しくてならなかったのである。

「――君がレダと闘いたくないのは、自分が勝つことが分かっているからかい?」
その声は、6年前と同じように、突然瞬の上に降ってきた。
瞬が立ちあがり、声のした方に視線を巡らせると、彼は、瞬を人目から遮ってくれている岩の上で、穏やかな微笑を瞬に向けていた。
「あなた……」
瞬が掠れた声を洩らすと、彼は岩の上から鳥のようにふわりと飛んで、次の瞬間には瞬の傍らに立っていた。

突然の彼の出現に驚きながらも、瞬は、『ああ、この人の瞳は昼の空の色だったのだ』と思い、我知らず口許をほころばせていた。
月の光の下では分からなかったが、昼の明るい陽光の中で、彼は溜め息が出るほど美しい男性だった。
真夏の炎のような太陽や、真冬の氷の刃のような太陽。その二つを併せ持った美貌の主の、瞳だけが春の陽射しのように暖かい。

「君自身、分かっているんだろう? 君の小宇宙は、既に君の師をすら凌いでいる」
「そんなこと……。だって先生はいつも穏やかで、本気で闘う時の先生の小宇宙がどれほどのものなのかは、僕には分からないもの……」
瞬のその言葉には答えず、彼はただ軽く左右に首を振った。

「君が人を傷付けたくないと思っているのは知っている。だが、今回だけは、仲間との闘いを決意してくれ。君は強い。だから、相手の損傷を最小限に抑えて勝利を得ることもできるはずだ。それは仲間との闘いではなく、君自身との闘いだよ。その闘いに勝って、アンドロメダの聖衣を手に入れ、日本に帰ってきてくれ」
「帰って……? あなたは日本にいるの? アンドロメダの聖闘士になって日本に帰れば、僕はあなたに会えるの?」
今 実際にこの人はこの場にいるわけではない――と、瞬には分かっていた。
何故そう思ってしまうのかは、瞬自身にも分からなかったけれども。

「以前言ったろう? 君がアンドロメダの聖闘士になることを諦めてしまうと、俺は不幸になる、と」
「どうして?」
気負い込んで尋ねた瞬の髪に、彼は指を絡めてくる。
いつのまにか、瞬の身長は彼の胸に届くほどになっていた。
「君が俺の孤独を癒してくれる唯一の存在だから」
まるで憧れ続けた夢の具現を見るように、彼の目が細められる。
瞬の瞳を、彼は眩しげに見降ろしていた。自分に自信を持った強い大人の余裕を全身にまとっている神のような美貌の主が、何故そんな眼差しを無力な子どもに向けてくるのかが、瞬には理解できなかった。

「君は自分のためには闘えないんだろう? だから、俺のために闘ってくれ。俺の幸福は、君の――この綺麗な白い手の中にあるんだ」
「……」
彼が何を言っているのか、瞬には全く分からなかった。
何と答えればいいのか思いつかずに戸惑っている瞬の顔に、彼の顔が近付いてくる。
はっと気付いた時には、彼の唇が瞬の唇に重なっていた。
幻のように捉えどころのない人なのに、軽く触れたその唇の感触は確かに実感を伴っていた。
瞬が身体を硬直させる。

彼は、やはり微笑みながら、瞬に尋ねてきた。
「もしかするとファーストキスだった?」
その口付けの余韻を辿るように目を閉じたまま瞬がこくりと頷くと、彼はゆっくりと破顔した――らしかった。
「そうか……そういうことか……」
彼は喉の奥で楽しそうに笑うと、もう一度瞬の唇に唇を重ねてきた。

二度目ともなると、瞬にも驚く余裕が出てくる。
どぎまぎしながら恐る恐る目を開けた瞬の前に、だが、名も知らぬファーストキスの相手の姿はなかったのである。
ぽかんとその場に立ち尽くしてしまった瞬に話しかけてくるのは、岩場に向かって徐々に満ちてくる波の音だけだった。






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