それから、瞬は、何かと氷河を気に掛けるようになった。
あの人の言った『奴は不器用だから』という言葉のせいで。
そうしているうちに、氷河は冷たいわけでも、特に他人に厳しいわけでもなく、あの人が言ったように、ただ不器用なだけなのだということが、瞬には見えてきたのである。
本当は皆に優しくしたいのだが、そうできない自分に焦れ苛立って、氷河はいつも険しい目をしているだけなのだ。
そんな氷河にある種の可愛らしさを感じて、瞬の中からは氷河のきつい目を恐れる気持ちがすっかり消え去ってしまった。
不器用なガキ大将のような氷河の行動は、瞬を心配性の母親の気分にさせた。

そうして、瞬は徐々に氷河と一緒にいる時間が長くなっていった。
“一緒にいる”というのは正確な表現ではなかったかもしれない。
それは、“瞬が一方的に氷河の面倒を見ている”と言った方が正しいものだった。
氷河は、何かにつけて世話を焼いてくる瞬に迷惑がる素振りを見せはするものの、決して瞬を突き放そうとはしなかったから、瞬は安心していた。
安心して、この不器用な仲間に気遣いを示し続けたのである。
そんなある日のことだった。いつも一方的に瞬が氷河の背中を追いかけているという構図が逆転したのは。

氷河が突然後ろを振り返り、初めてまっすぐに瞬を見詰め、恐いくらいに真剣な目で、
「おまえが好きだ」
と言ったのである。
意地っ張りな仲間をフォローするような気持ちで、あるいは不器用な子どもを見守る母親のような気持ちで氷河に接していた瞬にとって、その一言は大きな驚きだった。
熱っぽい瞳に瞬を映し、今にもその腕で瞬を抱きしめようとするかのような氷河に、瞬は威圧感さえ覚えた。
氷河の思いの熱さが恐くなって、結局瞬は氷河の告白に返事もせずに、その場から逃げ出したのである。

自室に戻り、氷河の威圧から解放されると、瞬は今更ながらではあったが、頬が熱くなってきた。
後ろ手にドアを閉じ、閉じたドアにもたれるようにして、
「僕……そんなつもりじゃなかった――よね……?」
と、まるで自分に言い訳をしているような独り言を口にする。
『なら、どうして、そんなに赤くなっているんだ?』と、瞬の中にいるもう一人の瞬が突っかかってきたが、瞬はその声を振り払うようにぶるぶると幾度も首を横に振った。
そして、気付いた。

手が届くほど近くにあの人が立っていて、何故か複雑極まりない表情で瞬を見降ろしていることに。
この人は何もかも知っているのだと思うと、少しばかりの羞恥を覚えたが、瞬は、彼がこの場にいることに驚きはしなかった。
「僕、泣いてないよ?」
「だが、困っているんだろう? 突然、あんな自己中心的な男に好きだなんて言われて」
「氷河はそんなんじゃないよ! あなたが言ったんじゃない! 氷河はちょっと不器用なだけで、ほんとはいつだってみんなのこと思ってるの……」

語尾が細くなってしまったのは、そんなふうに本当は繊細な心の持ち主である氷河を、下手をすると自分が傷付けてしまうことになるのかもしれないということに思い至ったせいだった。
「みんなのことを思っているというのはどうかな。今の奴の頭の中には君のことしかないよ」
そんなことを断言してしまう彼に、瞬は瞳を見開いた。
口調はいつも通りに暖かく穏やかなものだったが、その内容が、この優しい人の言うべき事とは思えなかったのだ。

「そ……そんなふうに言わないでください! 氷河は……少なくとも氷河は、そんなふうに人のこと蔑んだみたいな言い方はしません!」
瞬が必死の形相で氷河を庇い反駁してくる様を見ても、彼は気を悪くした様子は見せなかった。
むしろ、より一層優しく微笑み、そして、からかうように尋ねてきた。
「あの不器用で愛想のない男のどこがいいんだい?」
「ど……どこ――って……」
どもりながら、瞬は、この人の前でそれらしい嘘を言い繕っても無意味な気がして、正直になる決意をした。
「どこがいいとか悪いとかじゃないの。他の人にとっては欠点に見えるのかもしれないところも、僕には可愛く見えて――僕は……僕はただ、氷河と一緒にいるととても嬉しくて幸せな気持ちになれるだけなの。こんな気持ち……あなたには分からない?」

瞬が問いかけるように視線を巡らせると、彼は信じられないほど幸福そうな微笑を目元に浮かべ、肩をすくめた。
「あいにく、その気持ちは分かってやれないな。俺の愛する人は世界でいちばん優しくて綺麗で可愛くて強くて心が広くて――褒め言葉を言い始めたら尽きることがないほどよく出来た人だから。でも……」
「でも?」
「君がそう言うのなら、俺はもう何も言おうとは思わないよ。俺がここに来たのは、君が迷っているのかもしれないと思ったからだったから」

「あ……」
彼にそう言われて、初めて瞬は気付いた。自分が、もう迷っても困ってもいないことに。
最初から迷う必要もなかったのだということに。
(な……んだ、僕……そうだったんだ。僕が氷河を放っておけなかったのって、そういうことだったんだ……)
ひどく気恥ずかしくて睫毛を伏せかけた瞬は、その一瞬に彼が消えてしまうのではないかという懸念にかられ、慌てて顔をあげた。

幸い、彼の姿はまだそこにあった。
初めて会った時と変わったところのまるでない、幸福をしか知らない人間のような不思議な眼差し――。
『あなたは誰?』と尋ねたところで、答えてはくれないのだろう。
代わりに瞬は、少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「あなたの好きな人って、素敵な人なんでしょうね。あなたはいつもとても――幸福に満ち足りてるみたいな目をしてるもの」
「そんなことは訊かない方がいい。俺は調子に乗って、日が暮れるまで褒め言葉を羅列し始めるから」

自分より幸福な人間などこの世にはいるまいと確信できているような彼の笑顔は、瞬の心をまで温かくするものだった。
瞬がつられて微笑むと、彼はその微笑を更に深め、そして、ゆっくりと名残惜しげに瞬の前から消えていった。
瞬は、恐れも驚きもなく、消えゆく彼を見送ったのである。


それ以後瞬は彼に会うことはなかった。
彼は自分が泣いている時や困っている時にしか現れないのだと思うともなく思っていた瞬は、それを訝しむこともなかった。が、実は訝っている暇もなかった――というのが、本当のところだった。
氷河と付き合うということは、平穏無事な日々と縁を切るということだったのである。

氷河は桁外れに我儘な男だった。
独占欲が甚だしく、2、3歳の子どももかくやとばかりの焼きもちを焼く。
瞬のファーストキスの相手が自分ではないと聞かされると、無理に聞きだしたのは自分のくせに、腹を立てて2、3日口をきかない。
そのくせ瞬が自分以外の者に話しかけると、その相手に言いがかりをつけていく。

始めのうちはそんな氷河に面食らい、驚き呆れもしたが、瞬は段々と何故氷河がそんなふうなのかが分かってきた。
それは、氷河のこれまでが孤独だったから、氷河のこれまでが愛する人を失うことの連続だったから、なのだと。
彼の苛立ちや不安は、今自分が誰かに愛されていることを信じきれない、いわば自信の無さからきているのだと。氷河は、瞬と一緒にいる時にも、再び一人になる恐怖から逃れられず、だからつい苛立ち、我儘を言ってしまうのだ。

瞬は辛抱強かった。
氷河の我儘をたしなめ、その苛立ちをなだめ、もう一人になることはないのだと繰り返し言ってきかせ、また、実際にどんな苛立ちをぶつけられても、決して氷河の側を離れなかった。
瞬を独占することばかりを考えていた氷河も、瞬のその確固とした態度に、少しずつ落ち着きと自信を持てるように変わっていった。

瞬だけでなく、周囲の人間にまで優しさを示すこともできるようになり、それは、瞬の兄をして『氷河は人間が出来てきた』と言わしめるほどの激変だった。
闘いの繰り返しの日々を終え、瞬と二人で城戸邸を出たいと氷河に言われた時も、一輝は異を唱える根拠を見付けることができなかった。
氷河を庇い、その将来を心配しているつもりだった瞬も、いつのまにか自分の方が氷河に頼り甘えるようになってしまっていることに気付き、その事実にはっとする瞬間もあった。






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