二人で暮らし始めて数年後のある日、瞬はいつものように淡い色のカーテン越しの朝の光の中で、心地良く目を覚ました。 ベッドの上では明るく暖かい春の光が軽快に跳ねている。 捜すまでもなく氷河の体温を肩や頬に感じ、瞬は彼の方に視線を巡らせた。 氷河はとうに目覚めていたらしい。 数年前までの射るように険しい眼差しは影もなく、春の陽光以上に穏やかで優しい瞳が瞬を見詰めている。 反射的に笑みを返そうとした瞬は、突然びくっと身体を震わせた。 怪訝そうに氷河が目元を微動させたが、瞬は咄嗟に言葉が出てこなかった。 (これはあの人だ……。あの人そのもの。優しい目……包み込むみたいに大きくて暖かくて穏やかで……け……けど、でも、どうして……?) 「瞬?」 氷河が瞬の肩を抱き寄せるようにして、訳を尋ねてくる。 戸惑いを全て消し去りきれないまま、瞬は瞬きを繰り返した。 「あ……氷河……って、アンドロメダ島に行ったことなんてない――よね?」 唐突としか言いようのない瞬の言葉に、氷河がやはり微笑を返す。 「一度行ってみたいな。懐かしいのか? 次の週末にでも二人で行ってみようか」 氷河は、それを旅行のおねだりだと思ったのだろう。そういう答えだった。 尋ねた瞬の方が返答に困ってしまう。 氷河がアンドロメダ島に行ったことがあるはずがない。 あの人が氷河であるはずなどない。 そんなことはありえない――そう考え直して、瞬は微かに首を左右に振った。 (氷河と僕は一つしか歳が違わないんだもの。あの人は最初に会った時から大人で――それで僕は大きくなっていったのに、あの人は変わらなくて……) そんなことはありえないと自身に言いきかせながら、あの人が氷河以外の誰かであるはずがないと結論づける別の思考回路が、瞬の中にはあった。 これほどの美貌の持ち主がこの世に二人といるはずがない――というのが、その結論の核たる論拠だった。 最後の出会い、最後の別れの時のあの人の消え去り方は物理的に説明のつかないものだった。 時間の流れを無視したところにあの人が存在するのだとしたら、氷河とあの人が同一人物だったとしても不思議ではない。 だが、何故あの人は今の氷河の姿で――数年前の姿でもなく、何年後かの姿でもなく、今の姿で――現れたのかが、瞬には分からなかったのだ。 (今が幸せで、今の幸せを手に入れるため……? でも……) 「瞬? アンドロメダ島がどうかしたのか?」 黙り込んでしまった瞬を心配そうに見詰め、氷河が再び尋ねてくる。 何故か急に自分を捕らえ始めた不安を振りきるように、瞬は唇を噛みしめた。 「ううん、何でもない。あの島に行きたいわけじゃないんだ。こうして氷河と一緒にいられるのなら、場所はどこだって関係ないもの」 瞬はそう言って、氷河の裸の胸に頬を押しあてた。 「ベッドでもソファでも床でも砂浜でも?」 氷河のからかいに、瞬の頬が熱を帯びる。 「そういう意味じゃなくって!」 顔をあげて反駁しかけた瞬を、氷河が抱きしめる。 そのまま身体の向きを変え、瞬を自分の下に敷き込むと、氷河はその唇を瞬のそれに重ねてきた。 「今の幸福を際立たせるために昔の辛かったことを思い出しているだけなのなら構わないが――何かあるのか、あの島に」 瞬の不安を、氷河はしっかり感じとっているらしい。 瞬は、だが、あまりにも漠然としすぎている不安を氷河に説明することはできそうになかったし、説明する気にもなれなかった。 腕を、氷河の背にまわす。 これほど確かなものが、これほど近くにあるというのに、根拠のない不安に心を乱されるのは無意味だと思った。 否、瞬はただ、この幸福な瞬間を乱すのが嫌だったのだ。 自分から氷河の唇を求めていく。 氷河は一瞬怪訝そうな目をしたが、すぐに瞬に応えて、瞬の身体を溶かすための戯れを始めた。 不安が、かえって瞬の身体を敏感にしていた。 「あ……ん……んっ!」 いつもよりずっと早く瞬は言葉を失い、それが切なげな喘ぎに変わる。 最初は氷河の母親のような気持ちでいた瞬が、氷河を頼り甘えるように変わってしまったのは、このせいでもあったかもしれない。 波のように繰り返す愛撫や、瞬を翻弄する逞しい体躯。精神面でも、そして身体の面でも、瞬はもう氷河なしではいられないほどに強く、氷河に結びつけられていた。 それでも氷河は事あるごとに繰り返すのだ。 「おまえがいてくれなかったら、きっと俺は孤独以外の何物も知らないで、惨めな人間のままでいただろう。おまえがいてくれないと、俺はもう生きていられない。孤独なまま生き続ける術を、俺はもう忘れてしまった」と。 そんな時、 「氷河が好き。僕、氷河が大好き」 と、芸のない言葉を繰り返すことしかできない自分に、瞬はじれったさを覚える。 だが、その言葉を、氷河はいつも嬉しそうに受けとめてくれるのだ。 言葉も心も身体も隙間なく溶けあって、欠けるものなく満ち足りることの幸福を実感しながら過ごしてきた二人の時間。 二人の時間は永遠に続くのだと、ただそれを伝えるためだけにあの人は自分の前に現れたのだと、瞬は思うことにした。 氷河の腕の中で、他に何を考えることができただろう。 氷河の熱さを体内に収め放すまいとする、いつにない瞬の激しさに氷河は少なからず驚いたようだったが、すぐに瞬の示す情熱以上の情熱をもって、彼は瞬を法悦の域に到達させる。 尽きることを知らないように与えられる氷河の愛に、瞬は満ち足りていた。 与え、与えられ、互いに満ち足りていることを互いに知っている。 これほどの幸福を、誰が、どんな力をもって壊すことができるだろう。 瞬は、自分の中に芽吹いた不安を愚かなことだと自嘲した。 「氷河、今、幸せ?」 肩を上下させながら瞬が尋ねると、氷河は瞬の顔を覗き込んで春の陽射しのように微笑した。 「何故そんなことを訊くんだ? 瞬らしくもない愚問だな」 そう口では言いながら、その実、氷河はその愚問に答えたくて仕方がなかったらしい。 「幸せの持ち分で俺の上をいく人間は、この世にはいないだろう。しかも永遠の世界記録保持者だ。全ておまえにもらったものだが、な」 『おまえに会えてよかった』 それが氷河の口癖だった。瞬の見た最後の氷河も、やはり暖かく優しい微笑を浮かべていた。 あの優しい人が氷河と同じ人だと瞬が気付いた数日後、氷河の命はあっけなく消えてしまったのである。 昔、血気盛んな少年だった頃ほどには、氷河は闘いに夢中になれなかったのかもしれない。 闘いよりももっと大事な、心を占めるものがあったために。 少年だった頃に比べて、小宇宙は格段に強大になっていたというのに。 十二宮での闘いで、黄金聖闘士たちが、未熟で幼い青銅聖闘士たちに勝ちを譲った訳が、瞬には分かったような気がした。 もしその場に瞬が居合わせていたなら、氷河も瞬を守るために必死になることもできたのであろうが。 |