そんなわけで、チューリップ王国はここ数百年の間、戦火に包まれたことのない欧州唯一の国でした。
国土は狭いのですが、平和を求める人々が外国から多数流入し、その人たちのもたらした芸術・文芸・工芸等の各種技術・知識が、物質的にも文化的にも国と民とを豊かにし、チューリップ王国を欧州随一の経済文化先進国にしていたのです。
けれど、『平和』という言葉は、『戦争』という言葉があるからこそ存在するもの。
ある日、平和だったチューリップ王国の国境近くまで、予告もなく隣国の軍隊が進攻してきました。
国境警備の役人から報告を受けた一輝国王と瞬王子はびっくり仰天。
それは、チューリップ王国始まって以来の一大事だったのです。
攻めてきた隣国はヘラクレス王国という国で、少々粗野という評判のあるドクラテス国王の治める国。
強力な軍隊を持つ国ではありましたが、これまでチューリップ王国とは友好を保っていた国でした。
そのヘラクレス国が突然チューリップ王国を攻めてきた訳は、一輝国王にも瞬王子にも皆目わかりませんでした。
ともあれ、この緊急事態を放っておくわけにはいきません。
万一に備えて国を離れることのできない一輝国王に代わり、瞬王子が全権大使として急遽ヘラクレス王国に赴くことになったのです。
いつもは他国と他国の調停に赴くだけの瞬王子でしたが、今回は自国の危機。
どんな危険が伴うかわかりませんし、そのまま捕えられて人質にされてしまうこともあるかもしれません。
瞬王子をヘラクレス王国に派遣しなければならない一輝国王の心中は不安でいっぱいだったことでしょう。

平和なチューリップ王国は軍備も形だけのものでしたし、強い騎士もあまりいませんでした。
国いちばんの騎士は、国王であるがゆえに瞬王子と行動を共にすることができません。
最愛の弟に大した護衛もつけてやれない自分を、一輝国王はどれほど情けなく思ったことか!
瞬王子は、けれど、兄王の要請にためらうことなく頷きました。
大切な国の民、そして、欧州でいちばん美しい国を戦乱に巻き込まないための大切な役目とあれば、瞬王子はためらってなどいられなかったのです。
瞬王子は、たとえ自らの命を危険にさらすことになろうとも、尻込みするつもりはありませんでした。
その可憐な姿とは裏腹に、瞬王子の胸には、平和を守るためにならどんなことも恐れない勇気がたくさん詰まっていたのです。

ただ、瞬王子には一つだけ心配なことがありました。
遠いオスマントルコの宮殿から、瞬王子の愛だけを信じてこの国に嫁いできてくれた氷河姫。
瞬王子にもしものことがあったら、氷河姫は遠い異国で一人ぼっちになってしまいます。
それだけが、瞬王子の決意を鈍らせる、ただ一つのことでした。

一刻も早くヘラクレス王国に発ってくれと兄王に言われた瞬王子は、家来に馬の準備を頼むと、急いで氷河姫の部屋に向かいました。
瞬王子は、何を置いてもまず、氷河姫に、心配せずに待っているようにと告げて、氷河姫を安心させてあげたかったのです。

けれど、瞬王子が氷河姫の部屋に行くと、なぜかそこに氷河姫の姿はありませんでした。
いつもなら、この時刻、氷河姫は長椅子に寝転がって本を読んでいるか、今夜のための朝の運動と称して腕立て伏せをしていることが多かったのですが、今日に限ってその姿が見当たらないのです。
「氷河姫? どちらにいらっしゃるんですか?」
不審に思った瞬王子が氷河姫の名を呼んだ時でした。
氷河姫の居室の隣りの部屋から、一人の体格優れた騎士が瞬王子の前に颯爽と現れたのは。
「氷河姫……!」

なんということでしょう。
それは、唯一女らしいと言えば言えないこともなかった長い金髪をばっさりと切り捨てた氷河姫の、超男らしい姿だったのです。
氷河姫は、隣国の軍隊が国境に迫ってきているという報告を受けた時には既に、このことあるのを見越していたのでした。
そして、
『瞬をイカせられるか、一人で……!』
と××の時のようなことを、××の時の20パーセント増しくらい真剣に考えていたのです。

「氷河姫……なんてことを……。あの綺麗な金髪を僕より短くしてしまうなんて……-」
なにしろ当時の欧州では男性でも長い髪をしていて、それを一つにまとめておくのが普通でしたから、男装をする場合でも髪の毛を切る必要なんかなかったのです。
それなのに。
「おまえはヘラクレス国に行くんだろう? 俺もおまえと一緒に行くぞ」
ばっさりと金色の髪を切ってしまった氷河姫は、驚きのあまり呼吸することも忘れているような瞬王子に、
「決意の程を示すために、髪を切った」
と、偉そうな態度で言い放ったのでした。

瞬王子と共に敵地に乗り込もうという氷河姫の決意は真実のものでしたが、姫がその髪の毛を切った本当の理由は、本当は氷河姫が自分の長い髪の毛をずっと鬱陶しく思っていたからでした。
もちろん、そんな言わないでいいことを口にする氷河姫ではありません。
氷河姫は、自分が髪を切ったことを瞬王子がどういうふうに受け止めるかを十二分に承知していました。
つまり、瞬王子が、それを氷河姫の悲壮で健気な決意と受け取って、気を失いそうなほど感動するだろうことを。
なにしろ瞬王子が感じやすい体質だということを、氷河姫は夜毎のふ一ふ生活でよく知っていましたから。

そして、それは氷河姫の推察通りでした。
瞬王子の瞳は、氷河姫の壮絶な決意に感極まって、早速潤み始めたのです。
「そんな……。氷河姫、僕のために、あんなに綺麗だった髪を……。それに、こんな騎士の身に着ける服をいったいどこから……」
「む……」
感動しまくっている割りに、実に鋭い質問です。
まさか瞬王子がそんなことに気付くことがあろうとは思ってもいなかった氷河姫は、慌てて出来の悪い嘘をつくことになりました。

「あ、これは……さっき、急に眠気に襲われて、夢を見たんだ。多分あれは神のお告げだったんだろうと思う。おまえと一緒にヘラクレス国に行って、おまえを守れ、と不思議な声が俺に命じるんだ。で、目覚めたら、これが枕許にあった」
とんでもない嘘八百です。
本当は、その服は、以前、氷河姫が城を抜け出して酒場でお酒を飲んでいた時に知り合った仕立て屋と賭け事をして、勝った代償に仕立てさせた騎士の服でした。
勝った額が額だっただけに、その服は、神からの授かり物と言っても疑われないほど上等の布地でできていましたけれど、ごく普通の地上産の服だったのです。

さて、瞬王子はとても信心深い王子様でした。
神のお告げと聞かされて、それを疑うようなことはありません。
ですが──。
「で……でも、いくら神の思し召しでも、氷河姫はか弱い女性ですよ……!」
力いっぱい力説してから、瞬王子は、力いっぱい言葉を詰まらせてしまいました。
自分より氷河姫の方がずっとずっと体力も力もあることを、瞬王子は思い出してしまったのです。

「でも、そんな……神が氷河姫のように心優しい人に、そんな試練を強いるなんて……」
語気も弱まってしまった瞬王子に、氷河姫は毅然として言いました。
「夫を守るのは妻の務めだ」
「氷河姫、本当に危険が待ち受けているかもしれないんです。それだけはいけません。氷河姫に万一のことがあったら、僕は生きていけません」
「瞬……」
「氷河姫の気持ちは、僕、本当に涙が出るほど嬉しいです。でも、氷河姫が安全なところにいてくれることの方が、僕はずっとずっと嬉しいんです!」

瞬王子の返答は、だいたい氷河姫の予想通りでした。
瞬王子が自分以外の人間を危地に向かわせるようなことを潔しとするはずがありません。
それは最初から氷河姫にもわかっていました。
ですが、氷河姫には、瞬王子のウィークポイントを突く、とっておきの切り札があったのです。
「今回のヘラクレス国訪問は、いつもの帰国予定のある訪問とは訳が違うんだろう? おそらく、いつ帰ってこれるかもわからない旅になる。全てが丸く収まるまで、何日、何ヶ月、何年かかるかわからない。おまえは、何日も何ヶ月も何年も俺と一緒に眠れなくなるかもしれない。それで、おまえは平気なのか? 寂しくてぼんやりしていたら、折衝もろくにできないに決まっている。そうなった時、犠牲になるのは、おまえが平和を取り戻してくれるのを信じて待っている国の民なんだぞ」
「あ……」

ここで自分の欲望や孤閨の恨みに触れず、国民のことを持ち出す当たり、氷河姫は実に大した策謀家です。
それでなくても瞬王子は氷河姫に抱きしめてもらうのが大好きなのです。
そこに、『民に犠牲を強いないため』などというもっともらしい大義名分を与えられてしまったら、瞬王子の繊細な心はすぐに、秋風に玩弄される枯葉のように頼りなく、揺れ動いてしまうに決まっていました。

「でも、僕、氷河姫に会うまでは一人でも平気だったんです。だからきっと大丈夫だと思う……んですけど……」
「本当か?」
大丈夫でないことはわかっているくせに、そんなことを念押ししてくる氷河姫の前で、瞬王子は力無く瞼を伏せてしまいました。
「……人は誰かを愛すると弱くなるんでしょうか……」
「そんなことはない。俺は強くなった」
「でも、僕は……」
氷河姫に会うまでの瞬王子は、一人だけの夜なんて心細くも何ともなかったのです。
それなのに──。

しょんぼりしてしまった瞬王子を慰めるために、氷河姫はすぐ横にあった椅子を引いてきて腰を下ろし、その視線を瞬王子のそれと同じ高さに持っていきました。
瞬王子の両の腕を掴んで、項垂れてしまった瞬王子の顔を覗き込み、氷河姫は言ったのです。
「強くなったさ、もちろん。トルコの王女とは名ばかりで孤児も同然だった俺を、いつも必死で庇ってくれて、あの兄にも一歩も引かなくて」
「それは……だって、当然のことでしょう。氷河姫は僕のために住み慣れた故国を後にして、たったひとりで、こんな遠くの国にまで来てくれたんです! 僕が氷河姫を守ってあげなかったら他の誰が……」

瞬王子の、瞬王子にしてみれば当然のことが、氷河姫にとっては ちっとも当然のことではありませんでした。
瞬王子に巡り合うことができなかったら、氷河姫は一生あの華麗な牢獄の囚人でいるしかなかったのですから。

「ありがとう、瞬」
氷河姫は、健気で可愛い王子様を抱き上げるようにして自分の膝に座らせると、優しく、けれど、否やは言わせないという表情で言いました。
「一緒に行くぞ!」
「……」

氷河姫を危険な目に合わせることになるかもしれないという不安は、瞬王子の上からすっかり消え去ってはいないようでした。
けれども、瞬王子は、こんなふうに氷河姫に見詰められると、いつも抵抗する気持ちが萎えてしまうのです。
小さく、本当に微かに、瞬王子は氷河姫に頷き返しました。
それからしばらく、瞬王子は、騎士の格好をした氷河姫の横顔をじっと見詰めていましたが、やがて、首をかしげながら氷河姫に言ったのです。

「氷河姫……」
「なんだ?」
「なんだか、氷河姫、僕よりずっと凛々しいみたい」
「……」
そんなことに今頃気付くあたり、瞬王子はただ者ではありません。
けれど、その件に関して瞬王子に深く考察されてしまっては困る氷河姫は、瞬王子の髪を撫でながら言いました。

「そんなことはない。おまえに初めて会った時、俺は おまえほど凛々しい王子は他にはいないだろうと思ったぞ」
実際は凛々しいなどは露ほどにも思わず、その可愛らしさ、初々しさにこそ目を奪われた氷河姫だったのですが、ここでそんな本当のことを言って瞬王子の心を傷付けるようなことをするほど、氷河姫はバカではありません。
「え……」
瞬王子は、愛する妻の言葉を疑うことなどできませんから、氷河姫の言葉を言葉通りに受けとめて、ぽっ と頬を染めました。

「あ……あの、僕も……。僕も、氷河姫に初めて会った時、こんなに綺麗な目をした姫君は他には絶対いないに決まっているって思って、それで、だから、すぐに、あの……」
二人が結婚して既に2年以上の月日が経っていましたが、瞬王子の可愛らしさは減じるどころか、日を経るほどにいや増すばかり。
「すぐに?」
「氷河姫が大好きになったんです……」
「そうか」

そう言って恥ずかしそうに目を伏せてしまった瞬王子を上向かせ、氷河姫はやにわに瞬王子の薔薇色の唇を奪いました。
そして、愛妻の大胆で濃厚で熱烈で激烈でヘビーでハードなキスに、陶然としている瞬王子の耳元に、氷河姫は囁いたのです。

「いつも一緒にいよう。何があっても俺たちは離れないんだ」
「はい……」
氷河姫の凛々しい決意の言葉に、瞬王子は可憐に頷き返しました。
その様子の愛らしさに、氷河姫は目眩いを覚えるほどでした。
敵地への出発の時刻が迫っていなかったなら、氷河姫はキスだけでは我慢できず、即刻その場に瞬王子を押し倒していたことでしょう。
それができないのは、一重に、ヘラクレス王国のドクラテス王が馬鹿げた侵略行為を企てたせいです。
ドクラテス王に会う前から、氷河姫の胸には、隣国の王への激しい憎しみの炎が地獄の業火のように燃えさかっていたのでした。






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