ともあれ、瞬王子と氷河姫はその日の夕方にはヘラクレス王国の王城に着いていました。 可愛らしく明るい白亜のチューリップ城とは違って、重苦しい石造りの城が黄昏の中に威容を誇っている様は、なかなかに不気味。 氷河姫が横にいてくれなかったら、瞬王子はひどく心細い思いを味わっていたことでしょう。 でも、それは例え話。 今 実際に氷河姫は瞬王子の側にいてくれるのですから、心細いことなどありません。 瞬王子は顎を引いて深く頷くと、ドクラテス王の城へと馬を進めたのでした。 薄闇の中に浮かぶ王城の黒い影とは裏腹に、ドクラテス王の城の中はとても贅沢な作りになっていました。 王の玉座の間など、シャンデリアのせいなのか、きんきらきんの調度品のせいなのか、夜だというのに眩しいほどに明るいのです。 硬い表清でドクラテス王の前に立った瞬王子に、しかし、ドクラテス王は自国の軍隊の所為など忘れたかのように親しげに話しかけてきたのでした。 「ほう、これは……。噂には聞いていたが、噂は噂でしかないな。噂以上に可憐な王子様だ。それでいて堂々としている。失礼だが、結婚しているというのは本当か。まだ随分と幼いように見受けられるが」 「もう18になりました。妻とは2年前に」 「なんでも、その妃がとてつもない大女の、とてつもない醜女で、いつもヴェールで全身を覆い隠しているとか」 「……」 いくら強国の国王とはいえ、初対面で時候の挨拶もなしにこんな話を切り出してくるなんて、失礼もいいところです。 温厚な瞬王子でなかったら、思いきりムカついていたことでしょう。 実際、温厚ではない氷河姫は力いっぱいムカついていました。 「氷河姫が――妻がヴェールで顔を隠しているのは、宗教上の問題です。妻はトルコのスルタンの王女で、イスラムの神を信じています。イスラムの教えでは、女性がその美を誇ることは禁じられているそうなんです」 「誇るほどの美もないのを隠すために改宗もしなかったのだと、専らの噂だが」 「本当に噂は噂でしかないものですね。氷河姫は、その優しく気高い心をそののまま写し取ったように美しい姿をしています」 「チューリップ王国の王子は、自分が美しすぎるせいで、美しさの基準が余人と著しく異なっている──と、まあ、これも噂だが」 「……」 瞬王子は温厚な王子様です。 滅多に腹を立てることはありません。 まして、今 祖国は侵略の危機に瀕していて、今ここでドクラテス王を怒らせたら、どんな事態を引き起こすことになるかわからないのです。 愛する氷河姫を貶めるようなドクラテス王の言葉にも、瞬王子は必死で耐えました。 「ドクラテス殿は、大変にたくましく決断力と思いやりに満ちた、ご立派なご様子をしていらっしゃいます。――と、僕は思います。そう思う僕は変でしょうか」 何万台の大砲よりも威力を持つと言われている笑顔付きで、瞬王子は言いました。 瞬王子の花のような笑顔に、ドクラテス王はたじろぎ気味。 「う……いや、まあ、妥当な見方だな」 「氷河姫は心優しく輝くばかりに美しい女性です。ヴェールを取らないのだって、イスラムの風習もあるでしょうが、本当はその美しさで人を驚かせたくないと思っているからなのだと、僕は思っています」 言葉の上では『思っています』なのですが、瞬王子の口調は確信に満ちていました。 瞬王子の横に控えていた氷河姫は、思わず、 「……」 ――です。 氷河姫自身、自分を醜いと思ったことは、これまで一度もありませんでした。 自惚れではなく、美しいのは事実だと思っていました。 しかし、それはあくまで男としての美しさ。 瞬王子の他の認識は全てが大いなる誤解の上に成り立っているものでした。 『心優しく、気高い心』というのも『輝くばかりに美しい女性』という認識も 大いなる誤解。 『美しさで人を驚かせたくない』のではなく『たくましさで人に疑われたくない』なのです。 瞬王子にそう思わせるように画策してきたのは他ならぬ氷河姫自身だったのではありますが。 とまあ、氷河姫が自分の仕組んだ嘘の効果に戸惑いを覚えていると、廷臣居並ぶ玉座の間に、 「果たして、本当にそうでしょうか?」 という声が響いてきたのです。 瞬王子と氷河姫が声のした方に視線を向けると、そこには、以前瞬王子のお城に出入りしていたヘラクレス王国の大使の姿がありました。 「無論、氷河姫は非常に奥ゆかしく、その素顔を人目にさらすことを注意深く避けておられるようでしたが、あのデカい図体や瞬王子の二倍はあろうかと思われる肩幅など拝見するに、あのお身体に美しいお顔が乗っているとは到底思えませんし、もし本当に乗っていたとしたら、それはただ不気味なだけのような気がするのですが」 登場するなり、言いたいことを(しかも、かなり図星に近いことを)ベらベらべらとまくしたてた大使は、言うべきセリフを言い終わると、横目で瞬王子の反応を窺ってきました。 さすがにここまで言われては、瞬王子も冷静ではいられません。 「ひ……氷河姫の体格がいいのは、氷河姫が健康だからです。氷河姫を侮辱するようなことはおっしゃらないでください! 氷河姫の素顔を見たこともないあなたが何を言ったところで、それは憶測に過ぎません。僕は氷河姫の美しさを実際に見ているんです!」 「その目がおかしいという噂なのですよ、瞬王子。先程の陛下へのお言葉は正鵠を射ておりましたから、女性を見る目だけがおかしいのですかな」 「あ……あなたは僕を怒らせようとしているのか!」 「とんでもない。私は、事実を――そういう噂が流れているという事実をお教えしているだけでございますよ。氷河姫を溺愛している王子には、誰もご注進できずにいる事実でしょうからな」 「……」 そういう言い方をされてしまっては、瞬王子には何も言い返すことができません。 言葉に詰まってしまった瞬王子に、大使は更に言い募ります。 「我等は感心しておるのですよ。氷河姫が気高いお心をお持ちのお妃であることは存じております。孤児院や病院の建設など、福祉の方面で実に賢明な施策を打ち出し、国民にも慕われておられる。瞬王子は、女性の外見よりも心根の方に価値を置いていられるのでしょうな」 「……」 ここでいつもの通りに、 『外見より、気高い心の方に価値があるのは当然でしょう』 と言ってしまったら、ドクラテス王始めヘラクレス王国の廷臣たちが『やはり、氷河姫は……』と考えることは目に見えています。 瞬王子は沈黙するしかありませんでした。 つらそうに肩を落としてしまった瞬王子を見兼ねた氷河姫は、小声で瞬王子に囁いたのです。 「瞬。相手にするな。俺が醜かろうが美しかろうが、そんなことはどーでもいいことだ」 「氷河姫……。ぼ……僕だって……僕だって、そう思います。人間は、外見の美醜よりずっと心の美しさの方が大切です。でも……でも、氷河姫は本当に綺麗なのに、なのにこんなひどいことを、こんな侮辱するみたいに言うなんて……!」 愛する妻を侮辱されたことを、瞬王子は本当に悔しく思っているのでしょう。 いつも穏やかな瞬王子が肩を震わせて唇を噛む様子を、氷河姫はとても嬉しく思ったのです。 でも、だからこそ、こんなくだらないことで、しかも、こんな非常事態に見舞われている時に、瞬王子の心を乱すわけにはいかないではありませんか。 「おまえが知っていてくれればそれでいいんだ、俺は」 「氷河姫……」 瞬王子は、自分の城にいる女官や貴族の奥方たちが、美しいドレスや宝石にひどく執着していることを知っていました。 美しいと思われることは、女性にとってはとても重要なことなのだろうと、薄々感じてはいました。 ですから、その重要なことを氷河姫が『どーでもいい』と言ってくれるのは、夫の苦境を見ていられなくなった氷河姫の思いやりなのだと、瞬王子は思ったのです。 「氷河姫は本当に広い心の持ち主で、僕は自分が恥ずかしいです」 実際のところ、氷河姫は、瞬王子以外のどーでもいい奴にどう思われようとどーでもいと思っていただけだったのですが、もちろん、氷河姫はお利巧ですから、瞬王子の誤解を解こうなどとは露ほどにも考えないのでした。 「瞬王子からの返事がないようだが、では、やはり王子は、氷河姫が醜女だという噂を事実と認めるのだな」 「認めません。が、そんなことで言い争う気もありません」 ぴしゃりとそう断言して、瞬王子はドクラテス王の追求を切り捨てました。 多分、ドクラテス王は、氷河姫を眼も当てられないほど醜い大女なのだと思ったことでしょう。 そして、ドクラテス王は、何故かひどく満足そうでした。 |