さて、昼間氷河姫にたくさん可愛がってもらって、おまけに夜にもいぢめてもらった瞬王子は、その翌日は、昨日にも増して幸せいっぱい、夢いっぱい。
瞬王子は、今日こそは国境の軍を引いてもらおうと、意欲に燃えてドクラテス王の許に向かいました。
ところが その日、ドクラテス王の玉座の隣には不思議な物体がありました。
その不思議な物体の説明もせずに、ドクラテス王は、瞬王子にとんでもないことを言いだしたのです。
「氷河姫の改宗の意思が真実だったとしても、婚姻時点で氷河姫が異教徒だったことに変わりはなく、その婚姻は無効であろう。瞬王子。氷河姫を離別して、我が妹と結婚しろ。さすれば、国境の兵も引き、それ以上の進攻も断念しよう。我が妹を妻に迎え、兄王と国の民を安心させてやるがいい」

なぜドクラテス王がそんなことを言い出したのか、瞬王子にはとんと合点がいきません。
瞳だけは清らかに澄みきって美しい不思議な物体をちらちらと盗み見ながら、瞬王子は言いました。
「突然 何を言い出したんですか? 僕は神に氷河姫を永遠に愛すると誓ったんです」
しかし、ドクラテス王にはドクラテス王の都合と理屈があるようでした。
「その誓いが無効だと申しておる。それに――」
それは、大抵のことは自分の思い通りになる強国の王らしく、瞬王子の都合と理屈を無視したものでしたが。

「人の心は変わるものだぞ、瞬王子。それは神もご存じだろう」
「僕は神に――」
しかし、自分の都合を無視される瞬王子の方はたまったものではありません。
瞬王子は、ドクラテス王に向かって叫ぶように訴えました。
「僕は氷河姫に誓ったんです! この心は変わりません!」
「変わるものだ、人の心は。変わらなければ死んでいるも同じではないか」
「でも、僕は……」
そうなのかもしれません。
人の心は変わるものなのかもしれません。
ドクラテス王は、これまで瞬王子の倍ほども『人間』という商売を続けてきたのですから、その言葉には真実と現実の重みがありました。
でも。

「でも、僕は、たった今、氷河姫を愛しています !! 」
それが、今の瞬王子の真実だったのです。
けれど、ドクラテス王は、そんな瞬王子の“真実”を鼻で笑ってみせました。
「甘いな。小国とはいえ、仮にも王族だ。自分の背負っているものが平民とは違うことくらいはわかっているんだろう? 愛だの恋だのと子供じみたことを言っていると、国民が王子の幸せの犠牲になり、辛酸を舐めることになる。冷静に考えてみるんだな」
そう言って立ち上がると、ドクラテス王は、王の玉座の横に立っていた不思議な物体に微笑みかけました。

「どうだ、可愛らしい王子様だろう。未来のおまえの夫だぞ。気に入ったか?」
ドクラテス王に話しかけられたその不思議な物体は、喉の奥の方から『ふしゅらしゅら〜』と奇妙な息を吐き出しました。
「確かに可愛い王子様だが、氷河姫とかいうモノを愛していると言っているようだぞ、おにーさま」
その物体が言葉を話すのを聞いて、瞬王子はびっくりしてしまいました。
その不思議な物体は人間の、しかも少女だったのです。

それは、ドクラテス王の大切な妹、カシオス姫でした。
身長は氷河姫より更に高く、横幅は瞬王子の3倍。
髪の毛に少々不自由し、脂ぎった体を細く見せようと考えたのか、2サイズは小さいドレスをぎちぎち状態で着込んでいます。
「大丈夫。可愛いだけでなく、心優しくお利口な王子様だ。自分の国民のことを大事と思うなら、きっとそなたを妻に迎えてくれるよ、カシオス姫」
「そ……そうなのか?」
カシオス姫は、兄の確約にほんの少し首をかしげながらも、『ふしゅらしゅら〜』と嬉しそうに微笑したのでした。

ドクラテス王が妹姫と家臣たちを従えて玉座の間から立ち去っても、瞬王子はその場で項垂れたまま、微動だにできずにいました。
氷河姫に抱きしめてもらってやっと、瞬王子は言葉を取り戻したのです。
「氷河姫……。僕は氷河姫を愛しています! 僕の妻は氷河姫だけです! なのに、どうして――どうして、この気持ちだけじゃ駄目なの! 国の民と氷河姫を較べることなんて、僕にはできません。どちらも僕にとっては自分の命よりも大切な存在です。それなのに……!」
「瞬……」

瞬王子は、細い肩を震わせて、氷河姫の胸で、切なげに横に首を振りました。
「氷河姫、僕はどうしてこんなに無力なの……。僕はいったいどうしたらいいの……」
「泣かないでくれ、瞬。頼むから」
悲しみに暮れる瞬王子の髪を撫でて慰めながら、氷河姫は怒りに燃えていました。
氷河姫には、ドクラテス王のチューリップ王国進攻の狙いが、今やっとわかったのです。
それはつまり、不細工だと噂の瞬王子の妻を、もっと不細工な妻に置き換えること。
貰い手のつかない妹をどこぞの王族に片づけるために、ドクラテス王は、悪趣味の噂の高い瞬王子に白羽の矢を立てたに違いありませんでした。

どうにかしなければならない――。
どうにかして、自分と瞬王子の幸せを守らなければならない――と、氷河姫は思ったのです。
けれど、氷河姫に何ができたでしょう。
もし瞬王子が氷河姫のために、国民を犠牲にするようなことがあったら、瞬王子は、それこそ自分の“罪”に押し潰されてしまうことになるでしょう。
瞬王子の心の中には、“神”がいるのですから。
それでは、二人の幸せを守ったことにはならないのです。

かといって、今更故国の異母兄を頼るわけにもいきません。
異母兄は、外国の奴隷女の産んだ妹のことなど、とっくに忘れ去っているに違いありませんでしたし、下手にオスマントルコなどの介入を図ってしまったら、野心に満ちたスルタンのこと、瞬王子の国そのものを危険にさらしてしまうことになりかねません。
氷河姫は、その身体と心の強さとは裏腹に、政治的には全く無力でした。

でも。
どんなに無力でも。
氷河姫は、瞬王子を泣かせておくわけにはいきませんでした。
瞬王子を悩ませ苦しませるわけにはいかなかったのです。
部屋に戻って、言葉も、為す術もなく、まるで自分自身を見失ってしまったかのように力なく、大きな椅子に沈み込んでいる瞬王子を、氷河姫は黙って見ていられませんでした。
瞬王子の幸せが、氷河姫の幸せです。
そのためになら、氷河姫は、自分が不幸になっても構いませんでした。

「瞬。俺を離別しろ。そうすれば、おまえの国の民が戦禍に苦しむことはない」
だから、氷河姫は瞬王子にそう告げたのです。
たとえ瞬王子が、あの到底人間とも思えないカシオス姫と結婚したところで、瞬王子はおそらく、彼女と実質的なふーふ生活を営むことはできないでしょう。
なにしろ、瞬王子は、その時に夫が何をするものなのかを知らないのですから。
それに、心身共に正真正銘の男性である氷河姫は、もともと瞬王子の妃になる資格はなかったのです。
妻の座を追われたのなら、妻ではない者の立場から、瞬王子を愛してやればいいだけのこと。
妻でない者としてでも、瞬王子の側にいられるのなら、氷河姫はそれだけでも我慢できたのです。

「氷河姫……」
ふいに告げられた氷河姫の決意。
その決意の裏にある氷河姫の悲しみと苦しみを思って、それまで自失しているだけだった瞬王子の瞳には、見る見るうちに涙が盛り上がってきました。
氷河姫の優しさと強さに触れた瞬王子の全身に力が戻ってきます。
「たとえ無効だとしても、僕は神と氷河姫に、氷河姫を永遠に愛することを誓ったんです。氷河姫を幸せにすると誓ったんです! そんなことは絶対にできません!」
きっぱりそう言い切ると、瞬王子は、愛する氷河姫を守りぬくために、雄々しく立ち上がったのでした。






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