「おまえの方から訪ねてくるとは珍しい。雪だるまでも降るのか」
赤の他人の家を貸し倉庫代わりにする割りに、紫龍の自宅はきっちりと片付いていた。
研究室兼実験室兼作業場は母屋の他にあるらしく、その施設を造るために、紫龍はわざと周囲に人気のない郊外に家を構えたと言っていた。
氷河は、郊外の方が土地が安いからだろうと(勝手に)推察していたが。
ともあれ、紫龍の自宅を尋ねるのは、氷河はこれが初めてだった。

氷河には、自分の方から積極的に自称天才に関わるつもりなどなかったのである。
“用事”ができなければ、一生こんなところを訪れることもなかっただろう。
「瞬を引き取れ。俺はもう、あの子の顔を見ていたくない」
用件を、単刀直入に伝える。
「毎日眺めていてもうっとりする顔だと思うが」
紫龍の対応は、氷河の深刻な様子を茶化すかのようだった。
氷河には、しかし、紫龍のそのふざけた対応に反撃するだけの気力もなかったのである。
その代わり、自分の不幸の元凶に自分の鬱憤をぶつけるだけの怒気はあった。

「俺が望むなら、俺が望むなら――! 瞬にはそれしかないのかっ !! 」
「いいじゃないか。それで瞬がおまえに何か代償を求めたか? 瞬の愛情は報いを期待しない無償の愛、神の愛に匹敵する愛だぞ」
前置きもなく、突然頭から不満をぶつけられたにも関わらず、紫龍は慌ても驚きもしなかった。
まるで、氷河がこういう状況に陥ることを見越していたかのように、彼は落ち着き払っていた。

「そんなものはいらんっ!」
紫龍のそんな態度を訝る余裕は、しかし、今の氷河にはなかったのである。
「俺が望むのは、瞬が俺に何かを望んでくれることだ。俺に愛されたら、嬉しいと感じてくれることだ。愛されることを喜んでくれないなら、それが無償の愛だというのなら、俺はそんなものはいらない! 俺がこんなに……俺が、たかがロボットをこんなに愛してやっているのに、あのロボットはそれを喜んでもくれないんだぞ……っ!」

瞬との暮らしに疲れ果てた今の氷河は、プライドも磨耗しきっていた。
ロボットに恋してしまったなどということを――それは、これまでの氷河であれば、不様なことでしかなかっただろう――他人に告白してしまえるほどに、氷河の誇りは疲弊しきっていた。
「まあ、愛というのは相互作用だからな」
紫龍はどこか嬉しそうだった。
「ひねくれたおまえの愛情表現なんか、まともな人間にだって読み取れないだろうし、まして瞬はまだまだウブな子だし」
深刻な響きのまるでない口調で、氷河をなだめてくる。
「無理を言うなよ。あれはロボットだ」

「人間も神の作ったロボットじゃないか。だが、人間にはちゃんと欲がある」
自分をロボットと同列に考えるなど、以前の氷河だったなら、修辞学上の用法だったとしても口にしたりはしなかっただろう。
「……愛されるだけでは不満か。おまえは、それを望んでいたはずだ」
「……」
「おまえは、本当は、これまで誰も愛したことがなかったんだよ。だから、一人でも生きていけるなんて、馬鹿げたたわ言を平気で言えていたんだ。だから、愛の代償を求めてくる女共をモノ扱いすることもできていたんだ」
「それとこれとどういう関係が……」

愛が代償を求めないことなのであれば、確かにそんな愛はいらないと、今の氷河は思っていた。
もし愛が代償を求めないものなのであれば、氷河が瞬に抱いているものは愛ではなく、氷河が瞬に求めているものも愛ではないのだろう。
そんなことを思い知らせるために、もし紫龍が瞬を自分の許に連れて来たのだったとしたら、自分の無知はこれほどの苦渋を味あわなければならないほどの罪悪だったのかと、氷河は苦悩していた。


この現実を受け入れたくなくて、氷河がテーブルに肘をつき、右手で顔を覆ってしまった時だった。
「氷河……」
ふいに聞こえてきたロボットの気遣わしげな声に、氷河は弾かれるように顔をあげた。
扉の前に、彼の神経を苛立たせるものが立っていた。
恋人として氷河の身を案じたのか、あるいは紫龍が呼んだのかはわからない。
ともかく、瞬がそこにいた。

「俺が望んでいないのに、来たのか」
氷河が責めるように言うと、瞬は肩を落として俯く。
『来るな』とも言わなかった――と、氷河は瞬に口答えしてほしかった。
無論、それは叶う望みではない。
口答えどころか、それきり口をつぐんでしまった瞬が、氷河にまた残酷な気分を運んでくる。
その残酷が、自分の思い通りにならない――なりすぎる――瞬に向けられたものなのか、それとも自分自身に向けられたものなのかすら、氷河にはわからなかった。

「こいつを壊せ」
そうでもしない限り、自分は元の平穏を取り戻せない――自分を傷付け苛む存在が、そんなものに報われない思いを抱いている自分自身が、氷河には許せなかった。
「壊すことはないだろう。こんな出来のいいロボット、おまえ以外にも可愛がってくれる飼い主はいくらでもいる」
紫龍の間延びして呑気な口調に、氷河の全身は凍りついた。
そんな事態は、瞬に愛されるだけの今よりも、氷河には耐え難いものだった。

「瞬……瞬は……そいつにも言うのか……。そいつが望むなら――と」
「まあ、ロボットだからな」
「そいつにも、何をされても文句ひとつ言わないのか」
「まあ、ロボットだからな。……って、おい、おまえ、瞬に何かしたのか!?」
それが可能だということを氷河に示唆した当人である紫龍が、氷河を責める口調になる。
瞬は、大きく横に首を振って、紫龍の誤解を否定した。

「ち……違います! 氷河は何もしてないの! ただ、キスを――」
「キスを?」
「キスを教えてくれただけ……」
世にも可愛らしいロボットは、自分の発した言葉に数秒遅れて、口を滑らせてしまったことに気付いたらしく、頬を真っ赤に染めて、瞼を伏せた。
紫龍が、口許に苦笑を浮かべる。

「そうか、キスをね」
紫龍が、小馬鹿にしたような口調で瞬の言葉を反復したのは、氷河が何か言い返してくるのを期待してのことだったのかもしれない。
そんな紫龍の意図は、しかし、今の氷河には読み取ることすらできなかった。
瞬が自分以外の誰かのものになる――氷河の胸は、その衝撃的な可能性に取り乱していた。

「駄目だ。瞬を他の誰かに渡すのは許さん。それくらいなら、壊してしまえ」
「おまえ、壊すも壊さないも、これはもともと俺のものだぞ。おまえのものなんかじゃない」
氷河の辛そうな声を、瞬は黙って聞いていた。
薄く紅色を帯びていた頬は、今は血の気を失って青ざめてしまっていたが。
「金で買えるのなら、いくらでも支払う。だが、俺は、金で瞬をやりとりしたくない」
「だから、俺の厚情にすがるわけか。こういう時だけ」
「……」

返す言葉を持たない氷河に、紫龍は一瞬肩をすくめてみせてから、頷いた。
「いいだろう。俺はおまえと違って優しい男だからな。だが、瞬は俺にとっても大切な作品だ。自分の手で壊すのは忍びない。壊すのならおまえが壊せ」
なぜ客間にそんなものを置いているのかはわからないが、紫龍がテーブルの下にあった工具箱のような入れ物の中から取り出した万能ナイフを、氷河に投げてくる。
「心臓を一突きで済むぞ。瞬はロボットの域を越えた出来のロボットだから、赤い血が流れるようになっている。殺したという実感も得られて、おまえはおまえの独占欲を満足させられるというわけだ」
「……」

氷河が、どこか緩慢な動作で、それを手に取る。
自分にそんなことができるのかと迷っているような氷河の手は、ナイフを手にすると小刻みに震えだした。
瞬は瞳を潤ませて、そんな氷河を見詰めている。
自分の恋する人が、自分に何をしようとしているのかはわかっているのだろう。
それでも、瞬はその場から逃げ出そうとはしなかった。

「逃げないのか」
「はい……」
「俺が望むことだから?」
「はい……」
「それでも、おまえは平気なのか?」
「……」
「俺に壊されたら! もう、俺と一緒にいることはできなくなるんだぞ! それでも、おまえは平気なのか!?」
「それで……氷河の心が安らぐなら」
「……!」

何も報いを求めないロボットの無償の愛に、氷河こそが、ナイフよりも鋭く傷付けられていた。
「おまえを失うのに! 俺の心が安らぐはずがないだろう!」
瞬が氷河に報いを求めないのとは対照的に、氷河は瞬に求めるものが多すぎた。
だが、それでも――瞬の存在を失うくらいなら、彼は自分の求めるものを諦めることもできたらしい。
氷河は手にしていたナイフを床に放り投げると、そのまま何も言わずに部屋を出ていった。


「さすがに、そこまで壊れてはいないようだな」
氷河の残していった物騒なものを片付ける紫龍の口許には、笑みが刻まれていた。
「恐かったろう、瞬。逃げてもよかったのに」
それから彼は、彼の作品の上に視線を落とした。
瞬が、力無く横に首を振る。
「僕のせいだもの、氷河があんなことになったのは」
「そうじゃないさ」
紫龍は、悲しげに俯いてしまった彼の作品の髪を2、3度撫でて、もう一度微笑した。






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