父が亡くなってから数ヶ月後、俺は、父が学生の頃に訪れたことがあるという、その土地に赴いた。
身ひとつで日本にやって来た父は、亡くなる頃には、アパレル業界では売り上げで国内五指に入るほどの企業の経営者になっていた。
相当額の相続税を払うために遺産の整理をしていた俺は、I県に、父が他界の一年前に購入し、しかし利用した形跡のない土地があることに気付いた。
そこは、店舗を出せるような場所ではなく、俺は、父がそこに別荘でも建てるつもりだったのだろうと察した。
そのまま所有し続けるか、処分するか。
ちょうど仕事に一段落ついたところだった俺は、それを判断するために、3シーズン遅れのバカンスをその土地で過ごしてみようなどと酔狂なことを考えたのだった。
そこで、俺は、俺の桜の精に出会った。


『見事な桜の木があったんだ。そこで、あの人を見た』
父の言っていた桜がこれなのだと、俺にはすぐにわかった。
都会の雑踏から遠く隔たった静かな町の外れに、その桜の巨木はあった。
染井吉野としては、相当に古い木なのだろう。
都会の生活をしか知らない人間なら、自然保護公園と思い込んでしまいかねない庭園の片隅に立つその木は、この庭の主のような風格を備えていた。

その庭の主の家は、江戸時代にはこの周辺一帯の庄屋だったらしい。
明治維新と大戦を経て生き延びてきた旧家が、ものの価値の不確定な時代に入って急速に没落した。
――よくある話である。

1年前に、父が、この広大な庭園を家屋ごと購入するのと、この家の当主が亡くなったのが、ほぼ同時期だったらしい。
亡くなったから土地を手離したのか、土地を売らざるを得なくなって悶死したのか、そこまでは俺も知らない。

相続税は納めた後だから、父のものだったこの庭も桜も、今では俺のものである。
母屋は、庭の中程にある小高い丘に隔てられていて、ここからは見えない。
代わりに、花見の時期に使うのだろう質素な数奇屋が、桜の木から数メートル離れた場所に、こじんまりと建っていた。
俺の住む東京の屋敷も、あちらとしては贅沢なものだったが、この屋敷に比べれば、敷地面積の桁が違う。
無論、地価を考えれば、東京の俺の屋敷の方がずっと値は張るのだが、この家の庭には、金銭に換算できない風情というものがある。
桜は、まだ一分咲きというところだった。
ほとんどが濃紅の蕾で、桜色の花を咲かせているのは、ほんの一部である。
その、桜の木の下に、瞬がいた。

人形のように動かず、桜の花の開くのを待っているのか、じっと、まだ堅い桜の蕾たちを見上げて。
微動だにせず桜を見詰めている瞬の姿に、俺もまたしわぶき一つたてずに見入っていた。
瞬が俺の存在に気付いてくれるまで、どれほどの時間が過ぎたか、俺は憶えていない。
ただ、俺が記憶しているのは、その数分にすぎないはずの時間を、俺がひどく長く感じたことだけだ。

「あなたは誰?」
花の風情の人形は、俺より10歳以上は年下だったろう。
十代の半ばには至っていただろうか。
瞳は幼い子供のように大きく、手足は細く、だが、伸びやかではあった。
少女ではないことに気付くのに数刻かかるほど、性的なものが感じられない。
茶と金の中間色の髪は、到底日本人のそれとは思えず、瞳の色も緑がかっていた。
ほとんど白に近い一斤染の薄手の着物が不思議に似合っていて――その様子は、俺には、桜の精にしか見えなかった。

「この桜を買った者だ」
父は、購入したきり、所有者の権利を全く行使した跡がなかった。
俺の所有に帰している家には、今も元の住人が暮らしているらしい。
父が何を考えて、そんな一文の得にもならないことをしているのか、俺はここに来るまで色々と考え巡らしていたのだが――。

「……この桜は僕のものだよ。母さんが、僕にくれるって言ったんだ」
その言葉を聞いて、この桜の精は、父の愛した女性に連なる少年なのだと、俺は直感した。
それで、父がこの土地を放置していたことの辻褄が合う。
「……」
桜の精。
若い日の父が感じたのであろう眩暈と同じ感覚が、俺を襲う。
「僕のものだよ」
桜は人のものではなく、桜のものだ。
人間の理屈が桜に通じるわけもない。
通じなくていいと、俺は思った。
この桜の精が、俺の所有する土地にいてくれるのなら、それは喜ばしいことだ。

「……そうだな」
「そうでしょう?」
頷いて微笑したその表情が、あまりに幼い。
俺はその時になって、もし、その桜の精が人間でもあるのなら、少しばかり知能が足りないのかという考えを抱いた。
しかし、美しい。
そして、それは白痴的な美しさではなく、幼さから来る無垢に思えた。

「見るだけなら、許してあげる」
「それはありがたい」
浴衣というほどにはくだけていないが、薄い単衣の着物の袖を翻してそう告げた桜の精は裸足だった。
「あなた、名前、あるの?」
人間が、人間にそんなことを聞いてくるものだろうか。
「氷河と言う」
「どこから来たの」
「東京だ」
「それ、どこにあるの」
「ここから、東に車で3時間ほどのところだ」
「車?」
「……」

桜の精なら、自動車など知らなくて当然だろう。
俺は、桜の精の人間らしからぬその言葉に曖昧な微笑だけを返した。
どう説明すればいいものか、わからなかったせいもある。
「君は桜の精か」
「僕は僕だよ。シュンだよ。どうしてそんなこと言うの」
桜に名を名乗られた俺は、『シュン』という音を有する幾つもの漢字を思い浮かべ、最後に『瞬』という字をその音に当てた。
花をつけた一瞬後には散っていく、実を結ばない花。
日本人は、それを『潔い』と評する。

「桜の花に似ているから」
桜のように綺麗だから――と、普通の女相手になら続けていただろうセリフを、俺は喉の奥に押しやった。
「桜と僕は別のものだよ」
「では、君は人間なのか」
なぜか、俺はほっとした。
そして、同時に残念だとも思った。

「この桜、ソメイヨシノって言うの、知ってる?」
「ああ」
東京の桜は既に満開になっていて、花見客のニュースが連日テレビや新聞を賑わせている。
日本人の花見好きには驚くばかりだ。
その中の果たして幾人が、花見という祭りではなく花を愛でているのかと、俺などは疑問に思うのだが。
「ソメイヨシノって、僕が生まれるずっと前に、ソメイっていうところに住んでた人が、エドヒガンっていう花とオオシマザクラっていう花を交配させて作り出した人工の品種なんだって」

突然、瞬が、人間のようなことを話し出す。
「桜って、同じ樹の中でオシベの花粉がメシベに付着しても実を結ばないの。だから、人工交配で一本だけ生まれたソメイヨシノには実がならないの。ソメイヨシノを増やすには挿し木をするしか方法がないんだって。だから、ソメイヨシノはどの木もみんな、同じ遺伝子を持ってるの。同じ土に植えられて、同じ気候のとこで育てられれば、どの木も同じ時期に花を咲かせるんだって」

少し足りないのかと思っていた少年に、突然遺伝学の講義を始められて、俺は瞳を見開いた。
「そんなことを、どこで覚えたんだ?」
「あの人の持ってきた本に書いてあった」
「あの人?」
「もういない人。僕のお父さんじゃない人」
「?」

一瞬人間らしい会話が成立したと思った側から、また煙に巻かれる。
まるで、注意欠陥多動性障害の子供との会話のようだった。
瞬が桜の精でないとしたら、である。
俺が、この捉えどころのない少年から、その素性を聞き出すための言葉を選んでいる時、
「瞬!」
一人の女性が、瞬の名を呼んだ。
旧家の母屋を視界から隔てている小さな丘の中腹に、和装の四十前後の女性が立っている。
春の色に満ちた庭に、灰色の着物が妙に不吉なものに映った。

「また、来る?」
瞬の側に見知らぬ男がいるのを訝るようにして近付いてくるその女性に視線を投げていた俺に、瞬が尋ねてくる。
言葉そのものはぶっきらぼうだったが、響きは甘えるように優しい。
「この桜が満開になるところを見ようと思っている」
「あと3日くらいかかるよ」
「毎日通う」
「じゃあ、僕も」

俺は、どうやら、この桜の精のお気に召していただけたらしい。
瞬は、俺の返事を受け取ると、にっこりと微笑った。
「ここは私有地です。勝手に入られては困りま――」
顔の判別ができるほどの距離まで来てから、暗い色の着物の女性は、俺を見て、はっとしたように言葉を途切れさせた。
少しやつれている。
今でも十分に美しいが、若い頃には匂い立つように美しい女性だったのだろう――桜の花のように。

「法的には、私の土地です」
「……」
この女性が俺の父の桜なのだとすれば、実際の年齢はとうに四十の半ばを過ぎているはずだった。
一目でやつれているのがわかるのに、それでも実年齢より若く見えるのは、やはりその清楚な美しさのせいなのだろう。
彼女は、俺の一言で、俺が何者なのかを悟ったようだった。
あるいは、その言葉の前に、父と同じ色の俺の髪を見て、それと気付いたのかもしれない。

「瞬、いらっしゃい」
俺から視線を逸らして瞬を呼び寄せるその女性に、俺はさりげなさを装って、尋ねる必要のないことを尋ねた。
「桜を拝見したいのです。お邪魔してよろしいですか」
「あなたのものですから」
彼女は、俺の後ろに若い日の父を見たのだろう。
桜の花のようなこの女性と、薔薇の花のようだった俺の母。
花の風情が違えば、向ける愛情の質も違ってくるものなのだろうか。
母を慈しみつつ、この女性を忘れることもなかったのであろう父の気持ちが、漠然とではあったが、俺にもわかるような気がした。






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