翌日の午後、瞬は桜の下で俺を出迎えてくれた。
「裸足、怒られたの」
俺の姿を認めるなり、挨拶もなしに切り出してくる。
瞬は、今日は、薄紅色の鼻緒の女物の白木の履物を履いていた。
靴に絞めつけられたことのないような、綺麗な足をしていた。
丈の長くない着物の裾から覗く細い足首に、妙な艶めかしさを感じて、俺は慌てて視線を桜の上に転じた。

瞬は桜に似ている。
清潔で凛としているのに、艶めかしい。
桜は、無垢と妖艶が同居している花なのだ。
「咲かないな」
桜の様子は、昨日とあまり変わっていないように見えた。
「もうすぐ咲くよ。明後日……毎年見てきたからわかる」
「……」

咲いた桜は、すぐさま散り始めるだろう。
そうなってしまったら、俺はここに来る理由を失うことになる。
この美しい桜の精を見続けているためにはどうしたらいいのか――花が咲く前から、俺はそんな心配をし始めていた。
瞬の家の者と渡りをつけておくのがいちばん良いのかもしれない。
この土地家屋はこれまで通りに使って構わないが、俺の訪問を受け入れてくれと、あの女性に頼み込む。あの女性が父をどう思っていたのかは知らないが、こちらが下手に出れば、無碍に拒絶することもあるまい。

「昨日の人は君のお母さんか?」
瞬と会い続ける可能性を探るために、俺は瞬に尋ねた。
あの家の息子は一人だけだと聞いていた。
次期当主がこんなにも幼いのであれば、あの家の実権を握っているのは、その母親ということになるだろう。
「え?」
それまで俺に会えたことを喜んでいるように見えた瞬の眼差しが、ゆっくりと陰を帯びてくる。
瞬は、俺を見上げると、切なそうに細い眉を歪ませた。

「……氷河も、誰かを見るの」
「誰か?」
「僕じゃなく、誰かを見るの」
「どういう意味だ?」
「あの人は僕を見て、母さんを見るの。母さんは僕を見て、他の誰かを見るの。僕を見てくれる人は誰もいないの」
瞬の言葉は今日も捉えどころがない。
俺が瞬の生活環境や周辺の事情に通じていないことが、瞬にはわかっていないらしい。
だが、瞬の言っている言葉の意味が、俺にはわかるような気がした。

父はいつも桜の季節が巡ってくるたびに、その花の上に若い日の恋人の面影を見ていた。
母は、そんな桜に妬いて、春にはことさら薔薇を飾っていたものだ。
「俺の目の前にいるのは君だけだが」
瞬を喜ばせるための言葉を俺は知っていた。
それは、生前の父が、春になるたびに母に囁いていた言葉だった。
そうして、苦笑している父のキスを受けて、母は拗ねた振りをやめるのである。
瞬は、俺の母のように練れた人間ではない。
まだ子供なのだ。俺のその言葉を聞くや、瞬は素直にぱっと瞳を輝かせた。
だが、弾むような口調の、
「ありがとう!」
に続いて、瞬が俺にくれたものは、驚いたことに父と同じものだった。

桜の木から数奇屋に続く飛び石を自然のものに見せるための寄足石に飛び乗って、俺を側に手招いた瞬は、俺の頬にその唇を寄せてきた。
「急に、どうしたんだ」
日本の春を象徴する桜の花の精が、俺にくれた異国人の挨拶――に、俺は少しばかり驚いた。
「昨日見た変な箱の中でこうしてた。大好きな人にはこうするんだって。違うの?」
「違うわけではないが……」

しかし、こんな役得があっていいものだろうか。
瞬の言う『箱』と言うのは、おそらくテレビのことだろう。
テレビもキスの意味も知らない子供――そんなものが、今時どうすれば存在しうるものだろう。
いずれにしても、一貫性の感じられない瞬の言葉の羅列は、瞬の知能が低いからではなく、特殊な環境下で育てられたせいなのだと、俺は推察した。
だが、それは、どういう環境だ?

「違わない? よかった」
訝る俺に、瞬が、幼くあでやかな微笑を向けてくる。
瞬の生きている環境など知る必要もないと感じるほどに、俺は桜の幻術に捕らわれていた。
30センチほどの高さの寄石岩に立って、やっと俺に並ぶほどの瞬の身体を引き寄せて、キスの本当の意味も知らない瞬の唇を自分のものにする。
「なに、これ」

唇を解放されて、大きく吐息した瞬に、俺はぬけぬけと説明してやった。
「もっと大好きな人にするキスだ」
「キス? これ、キスって言うの?」
瞬は、初めて耳にしたらしい言葉を舌の上で楽しそうに転がしていた。
「変な感じ……。でも、嬉しい。氷河は僕を好きなんだよね」
「ああ」
「よかった」
安堵したように肩から力を抜いた瞬が、子供のように明るい瞳を俺に向けてくる。

「君くらい綺麗な子なら、俺の他にも君を好きな人間はいくらでもいるだろう」
「……あの人は僕を見て、母さんを見るの。母さんは僕を見て、他の誰かを見るの。僕を見てくれる人は誰もいないの」
瞬が、俺には通じない言葉を再び繰り返す。
「僕を好きな人は、氷河の他に誰もいないの」
「他の誰がどうあろうと、俺は君が大好きだよ」
睫を伏せかけていた瞬は、俺の言葉を聞くと、嬉しそうに――本当に嬉しそうに――口許をほころばせた。
昨日会ったばかりの人間に『好きだ』と言われ、その言葉を疑いもせずに喜び受け入れる少年。
こんなにも美しい少年が愛情に飢えているのかもしれないという推察は、かえって俺の中の憐憫を誘った。






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