滑稽な話だと思った。
母を奪われ、自らの生の意味を見失い、ただ生きているだけの日々の中で初めて出会った光を、よりにもよって これまで憎しみだけを抱いてきた実の兄に奪われてしまったのである。
こんな滑稽な話があるだろうか。
瞬が兄に抱かれていたということが問題なのではなく、その記憶が瞬の中にある限り、瞬が自分を受け入れてくれることはないのかもしれないということこそが問題なのである。
あの潔癖な心の持ち主に、過去の自分の弱さを許すことができるものだろうか。
それでもおまえが欲しいと告げることは、瞬を苦しませるだけなのではないだろうか──?

車を捨てて、氷河は、これまで一度も足を運んだことのない街を歩き続けた。
夜半過ぎから降り出した冷たい雨が、氷河の全身を打つ。
人通りのない露地裏の石の壁に向かって、氷河は拳を叩きつけた。
たかが恋に、これだけ自分の心が打ちのめされることがあろうとは、氷河は今まで考えたことがなかった。

赤い血が手の甲を伝って流れ、自らの全身から立ちのぼる むせるような熱に、氷河は鳴咽のような呻き声を洩らした。
そして、氷河は思ったのである。
こんな苦しみに、人は一人では耐え切れない。
それは、どれほど強靭な心を持った人間にも不可能なことだと。
だが、二人なら耐えることができるかもしれない。
二人でなら耐えることができ、乗り越えることができ、更に生きていくことさえできるのではないだろうか――と。
一人で生きているのが つらいのは、瞬だけではない。
生きていくために――氷河は瞬の許へと歩き出した。






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