瞬には本当は余裕があった。 アイザックが が、結局瞬はそうしてしまうことができなかったのである。 瞬は今までただの一度も、直接人に危害を加えるためにその力を使ったことがなかった。 使わずに済むよう努力してきた。 そして、実際に使わなければならない事態に相対した時、瞬は、しかし、身体がすくんでしまったのである。 その数秒後に、瞬はアイザックによって意識を奪われ、次に気付いた時、彼は、音もなく渦巻く国境の気流の前にいた。 「気流を止めろ」 瞬の腕を掴みあげ、険しい目をして、アイザックが言う。 瞬は、眩しすぎる陽の光のせいなのか、あるいはそれとは別の理由のためなのか、眼の奥が熱くなってきてしまい、アイザックと明るい空を見ずに済むように瞼を伏せ、その顔を俯かせた。 「最初から、おまえが狙いだったんだ。“世界を破滅させる力を得る者”を我が軍に留め置くことは不可能でも、“世界を破滅から救う力を持つ者”をさらってくるのは簡単だ」 アイザックもまた、瞬を見ずにそう言っていることを、瞬は知らなかった。 顔を伏せたまま、瞬は首を横に振った。 「気流は止めません。僕は、僕の国にいて――氷河の側にいてこそ、“世界を破滅から救う力を持つ者”です」 「止めなければ、おまえを抱いてあの中に突っ込むぞ。その綺麗な顔や手足に傷を作ってもいいのか」 「どうしても止めたいのなら、僕を殺してください。きっと止まりますよ」 それでは意味がないのだと怒りの感情を露わにするアイザックに、瞬は懇願するように訴えた。 「アイザック、僕をこの国の外に連れ出して、それでどうなると言うんです……! 自分の命や安寧を守りたいのであれば、力を頼らず、人を思い遣り愛することから始めるべきです! 僕の国にいて、命の危険なんか感じなかったでしょう? みんな、力で得た優位は力によって覆されることを知っていて、だから力の誇示などせず、互いに庇い合い、助け合って――」 言い終わる前に、瞬はアイザックによって、その場に殴り倒されていた。 「愛だの思い遣りだので、戦さがなくなるか! それがあれば人を傷付けずに済むか! 何も知らない温室育ちの花が、のぼせたことを言うな!」 「ア……アイザック……?」 瞬は、自分がアイザックに殴り倒されたことよりも、彼のその罵倒にこそ驚いたのである. “愛”の存在そのものについて否定されるならともかく、愛の効用について、アイザックにそんなことを言われることがあろうとは、瞬は思ってもいなかった。 誰よりも――少なくともアイザックより――自分は“愛”というものに慣れ親しんでいるという認識が、瞬の中にはあったのである。 「アイザック……それは……どういう意味ですか……」 上体を起こし、ふらつく足で立ちあがろうとした瞬の前に片膝をついて、アイザックが小馬鹿にしたような笑みを作る。 「“愛”がどういうものなのかは知らないが、“愛”が何を生むものなのかは、俺にもわかる」 「え……?」 いったいアイザックは何を言っているのかと瞬が訝る前に、アイザックの手が瞬の喉許に伸びてくる。 「すぐに教えてやるさ、瞬。俺と氷河とで」 「アイザ……氷河……?」 強い力で首を絞めつけられる苦しさから逃れるために、瞬は再び意織を失った。 気を失っていたのが束の間のことだったのか、それともかなり長い時間だったのか、瞬には判断できなかった。 ともかく、瞬が意識を取り戻したのは、自らの身体に加えられている痛み――“世界を破滅させる力を得る者”のためになら耐えられる痛み――のためだった。 まるで瞬が意識を取り戻すその時を狙っていたかのように、それまで とば口で止まっていたらしいそれが、一気に瞬を貫いてくる。 声にならない叫び声をあげてから、瞬は、自分に覆いかぶさっている男が氷河でないことを知ったのである。 (氷河……っ!) その事実を知っても、瞬はやはり氷河の名を喉の奥で声にしようとしたのだが。 自分が“世界を破滅させる力”を与えた人間ではない者の――アイザックの――前戯も言葉のやりとりも心の接触も何もないその行為は、瞬にとっては、鋭いナイフで身体の中を切りつけられているのと大して変わらない行為だった。 見開いた両の瞳を閉じることもできず、瞬は、自分を揺さぶり続けている隻眼の男と、その更に上にある青い空とを視界の内に捉え、愕然としてしまったのである。 痛みが、やがて痺れに変わる。 瞬自身は意識があっても何の思考も形作れずにいるというのに、瞬のその部分は勝手に収縮を始め、侵入者を歓ばせ始めたらしい。 耐えきれずにアイザックが洩らした呻き声を聞いて初めて我に返った瞬は、アイザックから顔をそむけ、そうしてやっと目を閉じることができた。 (氷河……! 氷河……どうしよう――どうして……? 僕、いや――僕、こんなの、いやだ……っ!) 「あ……あああ……っ!」 それ以上 声も身体も抑えきることができず、瞬は激しく身悶えた。 いったいこの男と氷河のどこが違うのだと、身体の中心が瞬に訴えてくる。 自分自身を満たすことに必死になって、それが瞬でも瞬でなくても本当はどうでもいいような熱にうかされた目をして、互いのためにではなく、熱を受けとめてくれている者のためにでもなく、ただ自分の快楽のためだけに律動している、似たような存在ではないか――と。 瞬の意識が身体に反論する前に、アイザックの動きが激しくなり、それは、アイザックを、そして瞬自身を、頂点に導いてしまっていた。 それと同時に瞬は、自分自身のために、そして おそらくは自分自身の意思で、思考と意織とを手放してしまったのである。 瞬が意識を取り戻したことに気付いたアイザックが、それまで瞬の頬をなぞっていたらしい自らの手をすっと引く。 「ちょうどいい。瞬。見ているがいい。おまえの言う愛とやらを手にして 戦いを捨てた男が、おまえのために何をするか」 アイザックの言う『男』が誰なのか、その時、まだ瞬は知らずにいた。 考えもせずにいた。 瞬は身体の中心に残る痛みのせいで、起きあがることもできなかった。 「アイザック……貴様……!」 風に飛ばされてしまったのかもしれない衣布を求めて、身体を横たえたまま、瞬がそろそろと 草の上に手を這わせ始めた時、その声が丘の上方から響いてきた。 瞬は、びくりと手と身体とを震わせることになったのである。 できれば今すぐ この場から逃げ出してしまいたかった。 せめて、衣類をまとい、何もなかった振りをしたかった。 目頭が熱くなり、だが、瞬は動けなかったのである。 声の主を見るのが恐かった。 「――人を愛して、それで憎しみが失せ、争いがなくなるものか……!」 囁くように言って、アイザックはその場に立ちあがった。 「遅かったな、氷河」 「アイザック、貴様……っ!」 瞬の耳に、氷河が剣を抜く音が届けられる。 はっとして、瞬は、痛みをこらえ、起きあがろうとしたのである。 それを、アイザックの下卑た言葉が遮った。 「まるで身体の中に水のうねりをたたえているような……。こんなふうに毎夜楽しませてもらっていたら、なるほど戦さをする気も失せようというものだな、氷河」 氷河は、それには何も答えなかった。 足早にアイザックのいるところまでやってきて、何か言う間も惜しいとばかりに、彼は剣を振り下ろした。 ただ一つ残っていた目を通って、アイザックの顔の右半分に一本の赤い線が走り、血が吹き出る。 氷河は無感動な眼をして、振り下ろした剣を持ち直し、返す一閃でアイザックの心臓を貫いた. アイザックの口許から血が吹き出してくる。 それは、そのまま肺に流れ込み、彼に窒息の苦しみをもたらしたらしい。 二、三度苦しげにむせてから、アイザックはその場に倒れ伏した。 「あ……アイザ……氷河……?」 人の死を目の当たりにしたのは、瞬はそれが初めてだった。 こんなにもあっけなく、人の命が奪われるものだということを、瞬はそれまで知らずにいた。 「あ……」 やっとのことで起こした身体を支えていた膝から、またすぐに力が抜ける。 その場に坐り込んでしまった瞬の肩に氷河が――アイザックの返り血を浴びた氷河が――瞬の衣布を拾ってきて、それを掛けてくれた。 『見ているがいい。おまえの言う愛とやらを手にして 戦いを捨てた男が、おまえのために何をするか』 アイザックの残していった言葉が、瞬の脳裡をかすめて消えていく。 「何もなかった。忘れろ」 言い聞かせるようにそう囁いて、自分を強く抱きしめる男の胸で、瞬は悲鳴をあげた。 |