「――君、日本人……か?」
「はい……?」
突然するりと氷河に隣りに並ばれて、その美少女は少しく驚いたように顔をあげた。
見開かれた瞳があどけない光を帯びて、遠目に見ていた時以上に愛くるしい。
この拾い物に満足して、氷河は笑みを浮かべた。
「ええ、そうです」
物怖じした様子もなく、彼女ははっきりした日本語で答えてきた。
明瞭で小気味良い発音は、彼女の知能の高さを物語っている。
ますます結構と、氷河は胸中でひとりごちることになった。
「名前は?」

さりげなさを装いつつ、その実、さりげなさを演出する必要など少しも感じていないような氷河の様子に、彼女が怪訝そうな視線を向けてくる。
「名前……知らないんですか?」
その声音には、明らかに失望の響きが混じっていた。
氷河は極めて軽い乗りで、両の肩をすくめてみせたのである。

「ああ、すまない。きっと君くらい綺麗で可愛い子は、ピットクルーの間でも名が知れ渡っているんだろうが、なにしろ俺はあまり女の子には目を向けないたちなんで」
真面目な顔で そう告げた氷河の前で、彼女はくすくすと噛み殺しきれなかったらしい笑い声を洩らした。
「あなた、グラード・グランプリの真船まふね氷河さんでしょう? 別名、スピードと女の漂流者」
「ひどいな。誰がそんなことを言ったんだ?君はこんな所で何をしている?」
「路面のコンディションを見ていたんです。僕、このサーキットは初めてなので」
「僕……?」

顔に似合わない一人称を訝ることになった氷河は、だが、それ以上に、彼女がコース・コンディションなどを気にかけていることの方を意外に思うことになったのである。
ピットで華やかにしている方が余程似合っている容貌の持ち主が、色気のないウインド・ブレーカーなどを着込んで路面と睨めっこをしている必要がどこにあるのだろう?
そう思わないでもなかったのだが、いずれにしても、このシチュエーションは幸運以外の何物でもない。
「じゃあ、コースを一周、一緒に散歩しよう」
誰にも邪魔されずに二人きりで4キロもの距離を歩いていれば、最低でもデートの約束を取り付けるところまではいけるだろう。
過去の経験から、氷河はそう踏んでいた。
なにしろ、F1ドライバーと言えば金満家の代名詞、世界に50名もいない花形職業従事者ということになっている。
F1ドライバーだというだけで、口説かれるのを待たずにOKをくれる女もいるのだ。
他チームの関係者といえど例外ではない――はずだった。

「それは構いませんけど――僕の質問に答えてくれるなら」
「質問? どんな?」
氷河は我が意を得たりとばかりに北叟笑んだのだが、並んで歩き出した少女の口から出てきた“質問”は、あまり色めいたものではなかった。
「氷河……さんは、昨シーズン、デビューするなり、このコースで優勝を決められましたよね。どういうことに気をつけて走られたんですか、このコース」
「……あまり楽しい質問じゃないな。俺自身について訊いてくれると嬉しいのに」
「F1ドライバーのプライバシーなんて、あって無きがごとし、です。あなたについてのことなら、大抵のことは知ってます。生い立ちから、昨シーズン一夜限りの恋人が何人いたかまで。人の噂や雑誌で知り得ることを尋ねるつもりはありません。せっかくの機会ですから、他の誰も知り得ない、マシンの中にいる時のあなたを知りたいんです」

どうやら彼女はかなりの事情通であるらしい。
こういう手合いを落とすには、極秘クラスのプライバシーを(たとえそれが作り話でも)打ち明けて関心を引くのがセオリーである。
「確かに、F1ドライバーには、マシンの中にしかプライバシーはないだろうな」
が、マシンの中でのプライバシーが女性の心を惹きつける力を持っているとは、氷河には思い難かった。
走ったことのない人間に共感を得られるような現実は、マシンの中にはないのである。

「デビュー戦だったから──まず何より自分の力に疑問を持たないように努めるところがら始めたかな。自分に自信を持てなくなったら、走りが攻撃的でなくなるからな。あとは、コンセントレーション。ここは市街地コースだから、視界で観客以外に色々な物が動くんだ。一瞬でも気を取られたら、それでスピン、クラッシュ、リタイアだ。それと──」
「それと?」
女性の耳に楽しい話題とも思えないのだが、彼女は至極熱心に氷河の話に耳を傾けている。
つられるように、氷河の話には熱がこもっていった。

「あとは、予選やフリー走行の時、他チームのマシンの出来あがりをよく見ておくことだな。オフシーズン中の調整で各マシンの性能は昨シーズンのデータでは判断しきれないほど変わっているはずだから、特にコーナーの立ちあがりのスピードなんかをね。前を走っているマシンの立ちあがりのスピードを見誤ると、その気流に巻き込まれてとんでもないことになる」
「あなた、昨年、それで、後続の2台をクラッシュさせましたね」
「故意にやったわけじゃない。俺は後ろにいるマシンを気にするたちじゃないからな。奴等は勝手に俺のマシンの作り出す気流の中に突っ込んできたんだ」
「──多分、そうなんでしょう。……今回の予選、何秒くらい出せそうですが? 1分20秒台は切れそうですか?」
「……」

その質問に答えて良いものかどうか――を、氷河は一瞬間迷った。
それは機密というほどの情報ではなかったし、それがライバルチームにばれたところで、だからライバルチームのマシンがそのタイムを上回るタイムを出せるようになるというものでもない。
とはいえ、だからといって、それは他チームにばらしても構わないというレベルの情報ではないことということもまた、確かな事実だった。
「──そう、20秒前後というところかな。切れるかどうかは何とも言えないな。ここで大言壮語してタイムを伸ばせなかった時、恥をかくのは俺だ」
「じゃあ、良くて19秒台、あなたの前に出ようと思ったら19秒前半のタイムを出さなければならないということですね」
「……そういうことになる」
「わかりました。僕、信じますよ。あなたが20秒を切るって。だから頑張ってくださいね」
「……ああ」

言葉面は励ましと応援の響きだが、彼女の瞳は少しも笑っていない。
氷河を応援するというよりは、何かを自分に言い聞かせているような きつい目をしている。
やはり彼女は、情報収集の良い機会と考えて自分の同道を許したのだろうかと、氷河は思うともなく思い始めていた。
実際その後30分間ほど、もっと別の方向に話を持っていきたい氷河の心を知ってか知らずか、彼女はマシンの話をしかしようとしなかったのである。
名前も聞き出せないまま散歩が終わってしまっては“スピードと女の漂流者”の沽券に関わると氷河が焦り始めた時、彼はピットの方からコースを逆方向に歩いてくる彼の宿命のライバルの姿を認めることになった。

「瞬!」
プロジェクトHSのナンバーワン・ドライバー“サーキットの独裁者”こと城戸一輝が、氷河の連れの名を呼んだ──らしかった。
「はい、今行きます!」
一輝に呼ばれた少女が、氷河に何の挨拶もなしに、その場から駆け出そうとする。
氷河は慌てて彼女を引き止めた。
「君、一輝の特別な・・・友人なのか?」
「いいえ」
即座に落ち着いた声音で返事が返ってくる。
一輝には英国人の婚約者がいるという話だったから、多分それは嘘ではないのだろう。

「今度、君を誘いたいな」
「プロジェクトHSのピットに来る勇気がおありなら」
氷河の誘いを喜んでいる気配はないが、嫌がっている様子もない。
淡々とした口調の彼女に、氷河は薄い微笑を浮かべてみせた。
「君とデートするためだったら、ライオンの檻の中にだって入るさ」
わりと真面目な気持ちで氷河は言ったのだが、彼女はそれには何も答えず、くすくすと含み笑いを洩らしながら、氷河の宿命のライバルの許へ一直線に駆けていってしまった。

フットワークが軽快である。
猟犬を煙に巻いて逃げ去る仔鹿を見送るハンターのように、氷河はその姿を見送った。






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