「仇敵同士なのに、意外や和やかに帰ってきたな」 「掴みどころがないところもあるが、それがかえって新鮮だ。バタくさいブロンド・グラマーには飽き飽きしていたところだったんだ。……仇敵?」 グラード・グランプリのピットに戻ると、マシンの整備を一段落させた紫龍がコーヒー・カップを手にしながら、この予想外の展開に対して簡単なコメントを投げてきた。 オイルの匂いとコーヒーの香りが、雑然と工具の散らばったピットの中に立ちこめている。 爽やかな香りを残して駆け去った美少女の余韻に浸りつつピットに戻ってきた氷河としては、ピットの油臭い町工場的雰囲気だけで十分に興を殺がれていた。 そこに『仇敵』などという不穏な単語を持ち出されて、氷河は更に不審の念を募らせることになったのである。 「なんだ、その仇敵というのは。一輝のことか」 「一輝のことなど、今更言及するまでもない。おまえが追いかけていったあの子のことだ。今期、プロジェクトHSのセカンド・ドライバーだぞ」 「……なに?」 冗談にしても出来の悪い冗談だと、氷河は思うことになった。 たった今、氷河は間近に見てきたばかりなのである。 少女というよりは子供のそれに近い、細い首、華奢な肩、厚みのない肢体――あれでどうやって、4G5Gにも及ぶレース中の重力に耐えることができるというのだろう。 万一 彼女がF1マシンに乗るようなことがあったとしたら、コースを一周もしないうちに気絶するのが落ち──というものだった。 「紫龍。どうせ冗談を言うなら、笑える冗談を言え」 真面目に取り合う気にもなれず、氷河は紫龍に背を向けて、ポットから不味いコーヒーをカップに注ぐ作業にとりかかった。 紫龍が、そんな氷河を見て、あきれたように顔をしかめる。 「おまえ、ほんとに世間を無視しきってるな。あの一輝の弟だぞ。去年全日本F3000でデビューするなりシーズン優勝し、気が遠くなるようなジャパン・マネーを背負って、F1にステップアップしてきた超ラッキー・ボーイだ」 「……馬鹿を言うな。あれのどこが“ボーイ”なんだ。恐ろしく 自チームのメカニックの言葉を全く信用していない氷河の態度のせいで、紫龍の眉間には縦皺が更に1本追加されることになった。 「男女の区別もつかないようでは、プレイボーイの名も返上だな、氷河。一輝の弟と言ったろうが。弟といったら男に決まっている」 「紫龍。冗談はやめろと言ったろう! 明日の予選を控えて、俺は気が立っているんだ!」 あくまで悪質な冗談を続ける紫龍に、氷河は食ってかかろうとした。 そこに、ピットの隅に積まれたタイヤの陰から姿を現わした星矢が、氷河の目の前にずい と某モータースポーツ誌を突きつける。 その表紙には、先程の美少女の花も恥じらうような笑顔が どアップで載っていた。 表紙コピーが『日本期待の名花、早くもF1デビュー。その魅力と可能性を徹底追求!』である。 「まさか──」 一瞬――否、確実に1分以上――氷河は呆然自失した。 バックに花が飛んでいないのが不思議なくらい可憐なその笑顔は、確かに先程氷河が1時間かけてキスの一つも奪えなかった美少女のそれだったのだ。 「これが一輝の弟? 少しも似てないじゃないか。これが本当に男だと、誰か確かめた者でもいるというのか」 「見てくれはともかく、染色体はれっきとした男らしいぞ。昨シーズンでプロジェクトHSとの契約が切れた一輝が、今期もプロジェクトHSに残る条件として、弟をセカンド・ドライバーに指名、契約することを要求したんだ。昨シーズン、プロジェクトHSのポイントの9割は一輝が獲得したものだからな。一輝を引きとめておけるなら、セカンド・ドライバーは誰でも良かったんだろう。あの子は、話題性と潤沢な資金をチームにもたらしてくれる。ポイントなど獲得できなくても、役目は果たせるというわけだ。契約内容もかなりのものらしいぞ。1ポイント獲得ごとに10万ドルで、1年契約。随分強気な契約だろうが」 「一輝の入れ知恵に決まっている! 何が強気な契約だ。16戦すべて予選落ちがいいところだ。あの細い身体でF1マシンを乗りこなせるものか……!」 氷河はもちろん、一輝も、他の誰も――F1ドライバーというものは、国内戦から始めて 一つずつステップアップを果たし、自国と海外を行き来しながらテスト・ドライバーを続け、やっとのことで ここまで登りつめてきた者たちである。 しかも、この世界は、実力と努力だけで上に上れる世界ではない。 かなりの強運と自負している氷河でさえ、F1のトップ・ドライバーとして名を馳せるまで、国内戦デピューから6年の月日を要したのだ。 それを兄の七光りか何かは知らないが、1年かそこいらで世界にデビューされてしまっては、苦心の末に ここまできた他のドライバーたちの気障りや不快を誘うことは間違いない。 これで万一、一輝の弟にただの1ポイントでも点を稼がれてしまったなら、現役、OBを問わずF1に関わった者たちのプライドは相当 傷付けられることになるだろう。 実際、氷河もかなり苦々しいものを心の内に抱いた。 抱きはした──のだが。 (しかし、あの子が美形であることに変わりはないんだし、あまり憎めるタイプの子でないのも事実だな) 兄の七光りでデビューした者など、いずれ散々な敗北を喫して この世界を去っていくに違いないのだから、その時を見計らって優しく慰めてやりでもすれば、いかな“サーキットの独裁者”の弟といえど、苦もなく落とせるに違いない。 (男でも子供でも、この際構うものか。捨て置き難い魅力の持ち主ではあるんだ。1回や2回の味見なら、バチも当たらんだろう) 今シーズン第1戦の公式予選を翌日に控えて気が立っている人間にしては随分下卑たことを考えて、氷河は唇の端に薄い笑みを刻んだ。 が、笑っていられるのはその日まで──だったのである。 |