「19秒202だと !? 馬鹿な! 兄の方と間違えてるんじゃないのかっ !? あんな細い腕では、1周分ステアリングを握り続けることだってできるはずがない!」
USAグランプリ公式予選第1日目。
モニターに映し出される各チーム各ドライバーの予選タイムのデータを見やりながら、氷河は怒鳴り声をあげた。
ギアボックスの調子が今一つの氷河は、19秒875のタイムで、プロジェクトHSの2台に続き、暫定3位につけている。
昨シーズン、決勝戦ではリタイアの回数も多かったものの、予選では必ず1位か2位のフロントローにつけていた氷河としては、予選3位などという成績は不本意極まりないものだった。

「もし兄と弟の記録表示が何かのミスで入れ替わっているのだとしても、その記録の両方がおまえのタイムより速いのは確かだ。考えてみればだな、俺たちが車体を1キロ軽くするのに半年苦労するところを、あの子がドライバーになれば、それだけで20キロは軽くなるんだから、好タイムも当然のことだろう」
「その20キロ分、あの子には体力がないはずだ! F1マシンは自転車じゃないんだぞ! あんな子供に制御しきれるはずがない!」
「理屈はわかるが、現実は現実だ。あの子は、おまえより一輝より速いタイムで予選を乗りきった。天気予報じゃ、明日は雨だそうだから、予選2日目は今日より いいタイムは期待できん。今年のUSAグランプリのポールポジションは、多分 今日の暫定順位通り、あの首の細い子供が獲得することになる」

紫龍にあっさり言われて、氷河はきつく唇を噛みしめることになったのである。
こんな馬鹿げた事態を、氷河は想像だにしていなかった。
予備予選組を含めて35台のマシンが、決勝戦走行権利を持つ26台のうちの1台になるため、しいては決勝戦スタート時の先頭位置であるポールポジションを獲得するためしのぎを削る公式予選を、たかが18か19の首の細い子供に制されてしまったのである。
氷河の憤りは至極当然のものだった。
もちろん、それは、プロジェクトHSのセカンド・ドライバーには理不尽な憤りではあったろうが。

(しかも、明日の2日目を待つまでもなく、あの子がポールポジション走者だと !? 冗談も大概にしろっ!)
F1ドライバーなど、大抵がプライドの塊りである。
調子の悪いギアボックスを懸命に整備している星矢を睨みながら、氷河はムカっ腹を抱えてピットを出た。
続き長屋になっている各チームのピットでは、いずこもこの驚異の新人の成績の話題でもちきりらしい。
ピットにたむろしているメカニックマンたちはドライバーたちと違って、この記録に素直に感嘆しているようだった。
その騒ぎが、更に氷河の気分を苛立たせる。
氷河はその喧噪を振り切るように足早に、自分の車が置いてある駐車場へと向かった。

ほとんどのドライバーや監督たちはモーター・ホームで今日の予選のデータ検証にいそしんでいるらしく、関係者専用の駐車場にはほとんど人影がなかった。
「ん……?」
そして、そこで氷河は、彼の宿命のライバルの姿を見付けたのである。
一輝はその腕に、彼の弟の小さな身体を抱きかかえていた。
「一輝……? 何かあったのか?」
どうやら彼は、人目を避けてホテルに戻ろうとしていたものらしい。
氷河の声と姿とに、彼は微かに顔をしかめてみせた。
まずい時にまずい人間に会ってしまったと思っている様が容易に見てとれる。
一輝の腕の中にいる彼の弟は、気を失っているようだった。

「どうしたんだ、いったい! 事故があったとは聞いていなかったぞ!」
「……事故ではない」
ついと顔を背ける一輝と彼の腕の中の青ざめた頬の持ち主を見比べて、氷河は事の次第を悟った。
「……これで81周完走できるとは思えんぞ。やめさせるなら今のうちだ」
「貴様、瞬の走りを全く知らないようだな。たまにはモーター誌の1冊も読んでおいた方がいいぞ。瞬が本気を出すのは予選でだけだし、今回失神したのは、F1デビュー戦だというので緊張しすぎたせいだ。ぽけっと突っ立っていないで、ドアを開けろ。気のきかない奴だな」

瞬を抱きかかえている手に握っていた車のキーを薬指にぶらさげて、一輝は氷河を怒鳴りつけたのだが、氷河は気がきいているのかいないのか判別し難い行動に出た。
彼は、車のキーではなく瞬の方を、一輝の手から半ば強引に譲り受けたのである。
驚くほど軽い手応えに、氷河は絶望的な気分になった。
予選でたった1周走っただけで気を失ってしまったF1ドライバーの話など聞いたこともない。
先程までの怒りを忘れ、氷河はにわかに心配になってしまったのである。

無論、トップクラスに属するドライバーも、また、どれだけ経験を積んだドライバーも、F1で走っている限り、無理をしていない者など、一人もいない。
この世界は、余裕を持って生き抜いていけるような甘い世界ではないのである。
だが、それにしても、この細い身体で『兄の七光り』などと言われてまでF1に挑戦するのは、“無理”を通り越して“無謀”である。
“健気”というより“痛々しい”。
氷河はしばし瞬の青白い頬に見入っていたのだが、一輝にせっつかれて、彼の車のナビシートにその身体を預けた。

「なあ、一輝。俺は別にこの子にポールを奪われたからとか、この子に脅威を感じるからとかで言うんじゃない。おまえ、この子のこんな姿を見て、何も感じないのか。どう見たってこの子にF1ドライバーが務まるとは思えん。4G5Gの重力にこんな繊細な肌をさらしていたら、この肌はいつか血を吹くことになる。無理だ。とても見ていられない」
「……」
一輝も、実は本心から弟のF1デビューを望んでいたわけではなかったらしい。
彼は氷河への反駁に及ぼうとはしなかった。
代わりに、思わぬ方向から鋭い声が降ってくる。

「余計なこと、言わないでください! 何の権利もないくせに! たとえ僕がレース中に死んだって、あなたには関係のないことでしょう! 今のあなたが何を言ったって、負け犬の遠吠えです!」
「瞬! 口が過ぎるぞ!」
兄に一喝されて、瞬はびくりと身体を震わせた。
顔に似合わず瞬はかなり勝気な少年であるらしいが、兄には従順な弟でもあるらしく、彼は目を伏せ、くぐもった声で素直に氷河に詫びを入れてきた。

「……すみません。失礼なことを言いました。でも、そんなこと、兄の前で言わないでください。僕、日本に追い帰されてしまいます……。僕、兄と同じレースに出て、兄と同じサーキットを走るのが夢だったんです。確かに僕は兄の力でここまできましたが、でも、明日の決勝レースで表彰台に上るくらいの力は持っているつもりです。僕は、あなたにだって、きっと勝てます……!」
「……」
血の気のない頬をしてきっぱり断言する様も、氷河の目には、ただの強がりとしか映らない。
6歳も歳下の少年に、実力は自分の方が上だと宣言されたようなものだというのに、氷河は微塵も怒りの感情を抱くことができなかった。

氷河の目に憐憫の光が宿っているのに気付いたらしい。
瞬は、哀しそうな目をして氷河を見詰めてきた。
「……すみません。また失礼なことを言いました。あなた、雑誌に載っている記事とは随分違うみたいですね。僕、あなたのスキャンダルばかり見聞きしていたものですから、誤解していたみたい。ほんとは優しい方なんですね。お詫びします。ごめんなさい」
“サーキットの独裁者”の弟にしては、えらく殊勝な態度である。
聞き慣れない誉め言葉にこそばゆさを感じて、氷河は皮肉がかった薄笑いを浮かべた。
「誤解はしない方がいいぞ。俺はF1ドライバーとしての君を心配しているのではなく、単に、この綺麗な顔の持ち主を心配しているだけなんだから」
氷河のひねくれた物言いに、瞬は静かに微笑んだ。

「この女みたいな顔は僕の武器であり、そして、最大の欠点です。あなた、本当に、雑誌の僕の記事を読んだ方がいいですよ。国内F3000を、僕がどうやって戦ってきたかを知っておかないと、明日の決勝で大怪我をするのはあなたの方です」
「昨日、うちのメカニックが持ってきた本をちらりと見たが、乙女座A型、趣味は音楽鑑賞としか書いてなかった」
一輝がドライバーシートに腰を降ろし、ドアを閉じる。
「好きな花は桜で、紅茶にうるさく、コーヒーは飲めないということも覚えておいてください。ありがとう。明日、またお会いしましょう」
一輝が車のエンジンをかけたのを合図に、瞬はそれだけ言うと、窓を閉じてしまった。

瞬は氷河との会話にかなり気を張っていたものらしい。
車が発進する際、氷河の視界に映ったのは、目を閉じて怠そうにシートに身体をもたせかけた瞬の、頼りない、だが、見事な線で描かれた印象的な横顔だった。
確かに瞬の一見愛苦しい少女のような面差しは、彼の最大の武器だった。
氷河はその時、瞬自身に警告されたにも関わらず、瞬の言葉を すべてただの強がりだと思い込んでしまったのである。






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