メキシコグランプリ決勝での氷河の不調・リタイアを、瞬はさほど重大事とは思っていなかった。
もともと氷河は堅調に少しずつポイントを稼いでいくタイプのドライバーではなく、極端な言い方をすれば、優勝かリタイアのどちらかでしかレースを終わらせることのできないタイプのドライバーだったのだ。
瞬が、氷河の様子がおかしいことに気付いたのは、メキシコグランプリの3週間後、場所を欧州に移してからの第一戦、フランスグランプリ公式予選1日目のこと。
兄に次いで暫定2位の座を確保してピットに戻った瞬は、そこで氷河の予選タイムを知って愕然とすることになった。
これまで予選では必ず3位内に入っていた氷河が、1位の一輝に5秒以上の差をつけられ、暫定25位にいるというのである。

「24秒312 !? 氷河が !?」
他のマシンの成績いかんでは、へたをすると予選落ちしかねないタイムである。
瞬には、氷河のそのタイムが信じられなかった。
「マシンのセットアップに失敗でもしたの !? あの氷河がそんなタイムを出すなんて、信じられないよ!」
普段の礼儀正しさも忘れ、動転した瞬は 自チームのメカニックを怒鳴りつけてしまっていた。

瞬に怒鳴りつけられるという光栄に浴したメカニックマンが答えて曰く、
「信じられないのは、俺たちも同じさ。それで、さっき、どっかのテレビのインタビュアーが、氷河に不調の訳を訊いてたんだ。俺、ピットロードの方で、それを盗み聞いてたんだけど、氷河の奴、インタビュアーに、『タイムが伸びなかったのは、失恋のショックで、気を入れてタイム・アタックできなかったからだ』って答えてたぞ。にこりともせず、真顔でな」
「し……失恋? 氷河が?」

暫定25位という成績以上に信じ難い言葉である。
それは、メカニックの彼氏も同感だったらしい。
「まさか氷河の口から“失恋”なんて単語が出てくるとはね。インタビュアーも、信じられないって顔してたよ。氷河の辞書に、そんな単語が載ってなんて思ってもいなかったんだろうな」
「そ……そう……」
メカニックマンの話を聞いて、瞬の頭は思いきり混乱してしまったのである。
まさか、そんなことが──とは思う。
氷河のことだから、メキシコグランプリからフランスグランプリまでの3週間の間に、誰か他の女性に色目を使おうとしたのかもしれない──とも、瞬は思った。

だが、万が一ということがある。
万一、氷河の失恋の相手というのが自分だったなら──そのせいで氷河が、こんな散々な成績しかあげられなかったのだとしたら──。
責任を感じるなという方が無理な話なのである。
そんな馬鹿げた理由で、世界のトップ・ドライバーが醜態をさらすなどということは、許されることではない。
そしてそれ以上に、気力・体力共に充実していない時にF1マシンを駆るという危険を、瞬は氷河に冒してほしくなかった。
スピードと共に高度な安全性を追求するのがF1とはいえ、それでもやはり、レースは死と隣り合わせの危険をはらんだ戦いなのである。
一瞬の油断が命取りになるかもしれないレースで、失恋のショックで気を入れて走れないようなドライバーには、命が幾つあっても足りない──ではないか。

(勝つために走るんだって言ってたのは、氷河なのに! 氷河は、失恋なんて、そんなくだらないことで、勝つことへの情熱が消えてしまったとでもいうの!)
走る時には全ての雑念を振り払うのがF1ドライバーであり、それができないなら、そのドライバーは走るべきではないのだ。

(氷河……)
実際にこうして自分がF1ドライバーとしてデビューするまで、氷河は瞬にとって、その私生活はともかくも、兄と並ぶ憧れのドライバーだった。
共に同じサーキットを走るようになってからは、攻撃的な氷河を抑えて走ることが、瞬の大きな楽しみの一つになった。
こんなことで、氷河という一人の優れたドライバー、優れたライバルが失われることが あってはならない。
それはモーター・スポーツ界における多大な損失だと、瞬は思った。






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