そんなことがあったにも関わらず、瞬がイタリアグランプリで2位を堅持できたのは、瞬の心を悲しみではなく怒りの感情が支配していたからか、あるいは、レースに臨む際、雑念を すべて振り払えるだけのプロ意識を瞬が持っていたからだったのだろう。 いずれにしても瞬は、自らの感情をレースの中にまで持ち込み、時にはそれで失敗し、時にはそれを生かして勝利する氷河とは、全く違うタイプのドライバーであるようだった。 そしてそれ以上に、瞬には、チームメイトであり、血の繋がった兄でもある一輝という支えがあった。 イタリアグランプリ後、第13戦の開催地であるポルトガルで、氷河はその事実を知ることになったのである。 「氷河。おまえ、もう、瞬にちょっかいを出すな」 一輝に突然呼び出され、呼び出された先のホテルのミーティング・ルームの椅子に腰を降ろした途端、氷河は、単刀直入に瞬の兄にそう言われてしまった。 一輝は、どこか瞬に面差しの似た金髪の女性と一緒だった。 おそらく彼女が、瞬の言っていた一輝の婚約者なのだろう。 ヨーロッパ・ラウンドのレースでは、一輝の婚約者が毎回サーキットに顔を見せているということは、氷河も星矢たちから聞いて知っていた。 「一輝。貴様は瞬の兄ではあっても、瞬の恋人ではないんだから、そういうことを言う権利はないはずだ」 少しムッとして、だが、瞬への負い目がないでもなかった氷河は、幾分抑えた声で一輝に反論した。 一輝が、意外や穏やかな態度で、氷河の反駁を遮ってくる。 「まあ、いいから聞け。瞬のためだけではなく、おまえのためにも言うんだ」 「……」 数秒の逡巡の後、氷河は とりあえず一輝の言葉に従うことにした。 瞬が先日の事の経緯をどこまで兄に告げているのかという不安も、彼の中にはあったのである。 氷河が話を聞くつもりになったことを確かめて、一輝は腰掛けていた椅子で脚を組み直し、おもむろに口を開いた。 「……俺と瞬は10も歳が離れている。俺は18の時にはもう英国に修行に出ていたし、だから、瞬が小学校にあがってからは、瞬に会えるのは年に2、3度がいいところでな、兄とは名ばかりの兄だったんだ。俺が20歳の時 両親が事故で死んだ時も、俺は英国でマシンを転がしていた。連絡を受けて日本に帰ったのは、両親の死後3日も経ってからだった。俺たちには他に親類もなく、瞬はその3日間を、ほとんど一人で過ごしていたんだ。まあ、学校の教師や近所の連中や、どこからか湧いて出た葬儀屋とかが、最低限の世話はしてくれていたらしいんだが──俺が自宅に帰った時、瞬は、薄暗い部屋に置かれた両親の棺の前に放心して座り込んでいた。多分葬儀屋が準備したんだろう葬儀の招待状に、子供のたどたどしい字で、あの頃名を馳せていた国内外のドライバーの名が書いてあって、それがあの子の周りに散らばっていた。──頼りになる親類はいないし、好き勝手なことばかりしている兄は肝心の時に側にいてやれないし、俺は瞬が哀れでな……」 「……」 氷河も幼い時にたった一人の肉親だった母親を亡くしていたので、瞬の境遇には身につまされるものがあった。 あの時自分が感じた喪失感と孤独感を、その時の瞬もまた経験したに違いない。 「しかし、何と言っても、10歳かそこいらの小学生を、世界中忙しく飛びまわっている俺の側に置くことはできんだろう。俺は、知り合いの元メカニックの親父さんのところに瞬を預けて、英国に戻ったんだ。せっかく手に入れかけた夢を瞬のために諦めることは、俺にはできなかった──すまんな。退屈だろうが、もう少し聞いてくれ」 黙り込んでいる氷河をなだめるように、一輝が言う。 氷河は首を横に振った。 「いや……瞬のことなら、何だって知りたい」 氷河の低い声に、一輝は微かに頷き、話の先を継いだ。 「瞬は、側にいてくれない兄の側にいられるようになるためには、自分もレーサーになるしかないと考えたらしい。瞬を預けた先の親父さんも瞬を不憫に思って、まあ、実際にレーサーになるのは無理としても、瞬の望む知識や環境は与えてやりたいと、色々世話をやいてくれたんだ。そういう話は俺も英国で聞いてはいたんだが、瞬のそれは趣味の域を出ないだろうと、俺は思っていた。瞬が本気でレーサーになりたいと言ってきた時、だから、俺は反対した。あの線の細い子にこの世界で生きていくのはとても無理なことだと思ったし、瞬にはもっと落ち着いた生活をしてほしかったから。それで、瞬の決意が固いものだと知った時、俺は瞬に賭けを持ちかけたんだ。スポンサードは俺が捜してやるから、国内F3000にデビューして3年以内に優勝できたら、F1に来るためのあらゆる手を尽くしてやる、とな」 馬鹿な賭けをしたものだと言わんばかりに、一輝は肩をすくめた。 「無理だと思っていたんだ、俺は。瞬はあの通り小柄で、俺やおまえより20センチ以上背が低いし──つまり、テクニックは養えても、いかんせん体力がない。4G5Gが当たり前のレースで、勝ち抜いていけるはずがない――とな。しかし、瞬は勝った。体力の不足を気力とテクニックで補い、俺の側にいられるようになるためなら、どんな努力も惜しまないと言ってな」 「そうか……」 最初に出会った時から瞬に感じていた、あの張りつめたような空気と、日々の生活で何が起こっても着実にポイントゲットしていく瞬の気丈さの訳を、氷河は初めて理解した。 瞬の走る目的が“勝つこと”ではなく、“兄の側にいること”なのだということも。 「……つまりだな。瞬は小学生の頃から、車と兄貴だけに目を向けて生きてきたんだ。だから、色恋の類のことは、まるでわからん。おまえのアプローチの本当の意味も理解できていない。おまえが何をしても無駄だ。おまえは瞬の気を散らせて混乱させているだけだ。まして、実力行使なんてのは もっての他だ!」 一輝の語調が突然 異様に険しくなる。 氷河はぴくりとこめかみを引きつらせた。 嫌な予感が、した。 「──まさか瞬は……全部おまえに言っているのか? つまり、俺が……」 互いの認識違いが原因とはいえ、結果的に氷河は瞬に乱暴を働こうとした──ということになっているのである。 弟に暴力を加えようとした男を、瞬の兄が許すはずがない。 案の定――瞬の兄は、忌々しげに氷河を 「瞬はな、俺の関心を引くためになら何でもする子なんだ。その日あったことは、タイヤのグリッドの状態から、自分に言い寄ってきた女や男のことまで、逐一俺に報告してくる」 (うわ……) 氷河は思わず両手で顔を覆ってしまったのである。 瞬はいったい、どうしてそんなことを兄に『逐一報告』などしてしまえたのだろう。 氷河には、瞬は常人の感受性が欠如しているとしか思えなかった。 「だから、車のこと以外、何もわかっていないんだ、あれは。その方面のことも、メカニックたちの噂や雑誌の記事を見聞きして心得た振りをしているが、その実、全くの子供で……イタリアで おまえのところから逃げ出したのも、おまえが恐かっただけで、おまえが自分に何をしようとしたのかなんてことは、後で半日も考えてから初めてわかったに決まっている。あれが大人びて見えるのは、マシンやレースの話をしている時だけで――おまえに似てるな」 「なに……?」 思いがけない一輝の言葉に、氷河が顔をあげる。 いったい何の冗談かと氷河は思ったのだが、氷河に向けられている一輝の眼差しは 極めて真面目かつ真剣なものだった。 「おまえが、あっちの女こっちの女とフラついているのと大して変わらん。車と兄以外のものを――人を本気で愛する方法を知らないんだ。おまえの瞬への接し方を見ていると、これが本当に“スピードと女の漂流者”なんて呼ばれていた男なのかと疑いたくなるぞ。まるで、欲しい玩具を手に入れるために、なりふり構わず母親に食いさがっている子供と同じだ。思慮も分別もあったもんじゃない」 「……」 返す言葉が、氷河にはなかった。 “本気で人を愛すること”を、確かに氷河は瞬によって初めて知らされたばかりで、自分が とてもではないが『上手く立ちまわっている』とは言い難い真似ばかり しでかしているということには、氷河自身も薄々気付いてはいたのだ。 「だからな。おまえが、人が言うほど悪い奴じゃないことは知っているが、瞬はやめておけ。どうしてもと言うのなら、五ヶ年計画くらいの遠大なプランを立てて、じっくり焦らずいい友人に――」 「俺は今 瞬を抱きしめてやりたいし、たった今 瞬に抱きしめてもらいたいんだ……!」 『愛することがへただから』などという理由で、愛することをやめてしまえるなら、人は苦しむことも悲しむこともなく人生を過ごせるだろう。 だが、そんな人生に甘んじてしまえるほど、氷河は、生きることに臆病な人間でもなかった。 それが幸福なことなのか不幸なことなのかは、氷河自身にもよくわからなかったのだが。 一輝が、氷河の真剣な眼差しに嘆息する。 「──瞬を放ったらかしにしておいた兄貴には言えないセリフだな……」 瞬がひとり日本で兄を求めて泣いていた時、その兄はエスメラルダという心の拠り所を見付け、孤独など感じてもいなかったのである。 瞬への負い目だらけの一輝としては、瞬の幸福のためになら何でもしてやりたいところだったのだが、本音を言えば、そもそも瞬の真の幸福が何なのかが一輝にはわかっていなかった。 こうして氷河に釘を刺すことが、正しいことなのかどうかもわからない。 いっそ氷河に瞬の心をかき乱してもらい、ショック療法を施してしまった方が、長い間求めてきたものを手に入れた今でも、どこか心の安寧に縁遠いところにいる感のある弟の成長につながるのかもしれない――とさえ、一輝は思っていた。 「一輝。私は、あなたの考えに異論があるわ。瞬ちゃんが知らないのは、“愛すること”じゃなくて“愛されること”の方よ。瞬ちゃんは、側にいてくれないお兄さんを求める気持ちが強すぎて、“愛されること”を実感する方法を覚えずに今日まできてしまったんだわ。――氷河さんも瞬ちゃんも、どこか不器用で、どこか似ていて、なんだか可愛いわね」 氷河がミーティング・ルームを出ていくと、それまで黙って二人の話を聞いていたエスメラルダが、初めて口を開いた。 エスメラルダは瞬より5歳年上である。 つまり、氷河より1歳年下である。 年下の女性に『可愛い』呼ばわりされるようでは、“スピードと女の漂流者”もおしまいだと、一輝は苦笑いを浮かべることになった。 「人間がいつまでも可愛いだけのものでいられるのなら、俺も何も言わんのだがな。エスメラルダ、おまえは、同性愛嗜好容認者だったのか」 それでも、エスメラルダが氷河より大人なのは動かし難い事実である。 彼女は、愛し方にも愛され方にも実に卓抜した才能を持つ女性だった。 「あまり好ましいこととは思わないけど、でも、彼と瞬ちゃん、二人ともすごく綺麗なんですもの。あの二人が一緒に並んでいたら、まるでお花畑よ」 「ああ、おまえは瞬の兄ではないから、気楽にそんなことが言える」 「瞬ちゃんの人生が、車と“お兄さん”だけで終わってしまうよりマシよ」 「……」 愛し方・愛され方以上に口の達者な恋人に、一輝は思わず深い溜息を一つ洩らしてしまったのだった。
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