「いったい氷河は何を考えているんです……! 僕は今、氷河に5ポイントも差をつけているんですよ! たとえ氷河が1位でチェッカーを受けたって、僕が2位に入れば、結局総合では僕が勝つことになるんですよ! 兄さんだって、ここのところ2連勝して上り調子だし、氷河がワールド・チャンピオンのタイトルを獲得する可能性なんて、に……2割もありません! なのに、どうして氷河はそんな賭けを持ち出してくるんです !! 」 氷河が、今期ワールド・チャンピオンのタイトルを取れなかったらF1を引退する旨、グラード・グランプリのオーナーに内報したらしいと星矢に聞かされて、瞬はひどく苛立っていた。 「まあ、そんなにクマみたいにうろうろしていないで、椅子にお掛けなさいよ、瞬ちゃん。素敵じゃないの。彼、そんなにも瞬ちゃんを愛しているんだわ。ロマンだわ。うっとりするわ。私も一輝にそんなセリフを言ってもらいたいわ」 「僕はちっともうっとりしません !! 」 未来の義姉の脳天気さに、瞬の苛立ちが更に激化する。 一輝の故国でのグランプリ観戦のために、欧州から極東の島国にやってきていたエスメラルダは、しかし、瞬の剣幕にたじろぐ素振りも見せなかった。 「そんなに彼にやめてほしくないのなら、彼を許してあげればいいじゃないの。フランスグランプリからこっち、彼に振りまわされていた間、瞬ちゃん、口ではどうこう言いながら、結構楽しそうだったわよ。私には、瞬ちゃんがそんなに彼を嫌っているようには見えなかったわ」 「き……嫌っているわけじゃありません……!」 我ながら意外なことに、瞬は拳を握りしめてエスメラルダに訴えていた。 エスメラルダが、意味深長な微笑をロ許に浮かべる。 レースが欧州以外の場所で開催される時には兄を一人占めできるが、欧州にやってくると、一輝はエスメラルダと過ごすために時間を割くようになる。 本来ならその間 一人きりで寂しい思いを抱いていなければならないところを、瞬は、氷河の強引な誘いのせいで気を粉らわせることができていた。 それは事実である。 イタリアのホテルでのことも、自分が軽率すぎたのだと、瞬は今では思うようになってきていた。 「え……F3の頃から、全日本F3000、国際F3000にF1まで、僕、ずっと氷河のこと見てきたんです……! すごく感情的だったり、理性的だったり、熱くなりすぎたり、冒険的すぎたりする氷河の走りに惹かれて、憧れて、氷河に関することならどんな小さな記事だってスクラップして……プライベートでは、そりゃ、ちょっと問題ありだけど、一緒に同じサーキットで走ってみて、氷河が激しくて、勝気で、寂しがりやで、拗ねてて、だから時々投げやりな走りをすることもあるんだってわかってきて……。マシンに乗って走ってる時の氷河は、僕、とってもよく理解できるのに、マシンを降りた氷河は全然わかんなくて……」 俯いたまま、小さな声でそう言って、それから瞬は哀願するような目でエスメラルダを見あげた。 「僕は氷河が嫌いなんじゃなくて、氷河がわからないだけなんです! 血の繋がった兄さんにさえ放っぽっておかれたような僕を、どうして氷河は、あんな目をして好きだなんて言えるんです……!」 「……瞬ちゃん……」 “人に愛される”ということがどんなことなのか、そして、誰もが人に愛される権利と可能性を持っているのだということを、これまで瞬が実感できずにきたのは、彼の兄のせいである。 そして、その責任の一端を自らが担っていることを、エスメラルダは自覚していた。 自分の腰掛けていた長椅子の隣りの場所に、瞬の腕を引っ張って座らせると、エスメラルダは未来の弟の気を引き立たせるために、目一杯明るい笑顔を作って見せた。 「瞬ちゃん。それなら、最終戦、勝っちゃいなさい。それで、その上で、絶望してる彼を許してあげればいいわ。きっと彼、感激して、もっともっと瞬ちゃんのことを好きになるわよ!」 「え……?」 「もし本当に瞬ちゃんに 彼にあんなふうに思われるだけの価値がないのだとしてもよ。彼が勝手に誤解してるんだから、誤解させておけばいいのよ」 「は……あ……」 「瞬ちゃん、可愛いんだもの。彼が好きになるの、当然なんだから、自信を持ちなさい。可愛くないはずないでしょ。瞬ちゃんと同じ顔をした私が、こんなに可愛いんだから」 「……」 エスメラルダに肩を抱きしめられ、かつ、自信満々でそう言われ、瞬は唖然としてしまった。 ここで異論を唱えると、彼女に失礼なことになるかもしれないと思うと、口応えもできない。 かといって、愛想笑いをするだけの気力も、今の瞬にはなかった。 「待たせたな、二人とも。やっと出られるぞ」 ちょうどそこに、オフィスヘの連絡を済ませた一輝がやってくる。 鈴鹿から移動してきた東京のホテルのラウンジは、時刻が遅いせいもあって、彼等の他に人影もない。 これから瞬と一輝は最終戦開催地であるオーストラリアに向かい、エスメラルダは英国に帰国することになっていた。 鈴鹿から既に3日も経ってしまったというのに、氷河が持ち出してきた とんでもない賭けについて何も言ってくれない兄に、瞬はここのところずっと気落ちしていた。 エスメラルダと違って現役F1ドライバーである兄なら、もう少し事を深刻に受けとめて、的確な助言をしてくれるのではないかという期待を、瞬は抱いていたのである。 「瞬。何ぽけっとしてる。タクシーを待たせてあるんだぞ。他人の運転する車に乗るのは嫌だろうが、空港までの辛抱だ」 「あ、はい……」 兄は、とても期待に応えてくれそうにない。 瞬は両の肩を落として、玄関に向かう兄の後を追った。 「ああ、そうだ、瞬」 荷物をトランクに入れるようポーターに指図していた一輝が、急に思いついたように瞬を呼びとめる。 「おまえ、次のレース、勝っても負けても氷河を許してやれよ。氷河は確かにどうしょうもない阿呆だが、ドライバーとしての腕は一流なんだし、あれだけおまえに惚れてるんだ。見る目もある奴なんだからな」 「え……?」 ふいにエスメラルダと同じことを兄に言われ、瞬は驚いて その瞳を見開いた。 ゆっくりとエスメラルダの方に視線を巡らせると、その先ではエスメラルダが肩をすくめ、いたずらっぽい笑みを浮かべている。 兄とその婚約者は、その思考の過程はともかく、結論として全く同じ意見に行き着いていたものらしい。 兄とエスメラルダの婚約を知らされた時から、彼女に兄を取られてしまったようなわだかまりが瞬の中にはあったのだが、今、突然、その隔意が氷解し、胸のつかえがとれていくような気分を、瞬は味わっていた。 彼女は多分、最高の義姉になるだろう。 瞬は、微かに涙のにじんだ瞳で、エスメラルダに微笑を返した。 |