子供の頃は良かったと思う。 闘うべき敵は自分自身だけで、倒すべき敵はいなかった。 たとえば父親や母親は、己れの側に存在しないが故に、ただ“求めるもの”であり、その生き様に思いを馳せる必要はなかった。 己れが孤独であるが故に、ぬくもりを求めた。 自分以外の孤独な人間の孤独を思い、泣くこともなかった。 『瞬はすぐ泣くけど、側にいると気分がいいから、ずっと俺の側に置く』 兄の陰に逃げ込もうとするたび、それを阻まれ、用もないのに『気分がいいから』という勝手な都合で、氷河の側にいることを義務付けられ、いつも泣きべそをかいていた頃。 それぞれの修行地に送られる日、兄との別れに涙を流していた瞬に、氷河は言った。 『おまえはちゃんと帰ってこなきゃ駄目なんだぞ! おまえは俺の側にいて、俺の靴の紐結んで、喧嘩して破けた服繕って、俺が顔洗う時はタオル持ってきて──それがおまえの仕事なんだからな!』 『僕は氷河の家来じゃないよ!』 と反論するのが恐ろしくて、半べそをかきながら、瞬は俯いた。 『僕……靴の紐はちゃんと結べないし、服繕うと かえってぐちゃぐちゃにしちゃうし、だから氷河、他の人に……』 『うるさい!』 金髪のいじめっ子は、しどろもどろの瞬の反駁を大声で遮り、まだ小さかったその手でしっかりと彼の家来を抱きしめた。 『靴の紐がバカ結びでも、かぎざき ぐちゃぐちゃにしても何でもいいから、帰って来るんだ! もいっぺん会うんだ! じゃないと、また泣かせるぞ、このぐずっ!』 いつも天上天下唯我独尊の 六年分大人になり、聖闘士になって日本に戻る頃には、氷河のその感情も理解できるようになり、瞬は少し胸をどきどきさせながら氷河との再会に臨んだのである。 瞬と同じように六つ歳を重ねた氷河は、しかし、あの幼い日の別れのことなど覚えていないかのように表情のない瞳をして、瞬の前に姿を現わした。 氷の聖闘士──シベリアの雪と氷が、彼を大きく変えてしまっていた。 同じアテナの聖闘士として、いくつかの闘いを共に闘った。 殺生谷、十二宮──天秤宮──。 それでも仲間に対する友情以外の何事をも口にしない氷河に、瞬は苛立たしさを感じさえした。 何を期待していたわけでもない。 幼い頃、ことあるごとに我が物顔でおまえを家来扱いしていたのは、おまえを憎んでいたからでも嫌っていたからでもないんだ──と、瞬は氷河に言ってもらいたかっただけだった。 ちょっとだけ、おまえは俺にとって特別な奴だったんだぞ──と、一言だけ。 『本当は俺はおまえが好きだったんだ』という、ただ一言を、瞬は氷河の口から聞きたかっただけなのだ。 闘いの最中、闘いと闘いの狭間、いつでもよかった。 「あ……ああ!」 瞬の胸元でミッドガルドの唇と金色の髪が、瞬の身体の中心で彼の指と脚が、じれったそうに蠢く。 その感触に耐えきれず、瞬は声を洩らした。 望んでいたのは、こんな行為でもこんな激情でもなかった──と思う。 『帰って来るよ、ちゃんと。ねえ、だから氷河、泣かないでよ。僕、ちゃんと生きて帰って来るから……!』 泣きべそをかいている瞬に、なだめるようにそう言われ、 『誰が泣いてるって言うんだよ!』 と、鼻をぐずつかせながら気まずそうに横を向き、それから悔しそうに唇を噛んだ氷河の横顔。 あの時のように素っ気なくても構わないから、 『よく帰ってきたな』 と、瞬は氷河に誉めてもらいたかっただけなのだ。 こんな、心も身体も崩れ落ちてしまいそうな激しい感情のほとばしりを氷河に望んだことなど、瞬は、これまで一度もなかった──なかったはずだった。 だというのに。 「氷河……いやだ……氷河……やめて……」 まるで、誘いかけるようなに力ない声を洩らす自分の唇が、瞬には信じられなかった。 徐々にミッドガルドのために身体を開いていく自分が、本気で逃れようと思えばそうすることもできるのに、わざと弱々しい抵抗を示す自分が、できうる限り深く彼を感じようとするが故に過敏に性的な反応を示す自分の肌が、瞬には理解できなかったのである。 しかし、それは事実だった。 瞬の肌は、ミッドガルドの愛撫に嫌悪を示そうとはしなかった。 触れられるたび熱を持ち、苛まれるたび声をあげ、貫かれるたび歓喜する自分の身体を、だが、なぜ厭うことができるだろう。 どういうものとしてであれ、何のためであれ、“氷河”がそれを求めてくれているのだ。 身体のどの部分も、自分の意思では動かせない。 爪先と指先だけが、不思議に強張り、緊張している。 全身を駆けめぐる歓喜の思いが、そこで行き場を見失ってしまったかのように――。 嵐の中で翻弄され、今にも海の底に引きずり込まれてしまいそうな小舟のように、氷河は激しく瞬を揺さぶってくる。 今 瞬のすべての舵を取っているのは、瞬自身ではなく瞬を翻弄している荒れ狂う波だった。 瞬の指も唇も肩も腕も、おそらくはその心までもが、彼を屈服させようとする波の望むように動いていた。 溺れかける入間がそうするように、何かにすがろうとして伸ばされた瞬の手を取り、その指をミッドガルドがきつく噛む。 「い……や……っ!」 苦しい息の下から洩れる声。 そして、瞬は何度目かのミッドガルドを身体の奥に感じた。 もう、何がどうなろうと構わない。 気も狂いそうなほどに激しいエクスタシー。 もしかしたら、その瞬間のためだけに人間は己れの生を営んでいるのではないかと信じてしまいたくなるような――。 最後にミッドガルドが瞬の中から身を引いた時、瞬は自分の中にあったすべてのものを彼に奪い取られてしまったような虚脱感に襲われ、ミッドガルドの残していった熱に肩を上下させている自分の身体は、ただの抜け殻なのではないかとさえ思ったのである。 |