アテナの小宇宙も、星矢や紫龍たちの小宇宙も、瞬には感じとれないまま、日々が過ぎていった。 彼等がその小宇宙を気取られぬようにしているのか、あるいは、瞬の意識がそれを感じるまいとしているのか、それとも既にそれらのものはこの付近に存在しないのか、ミッドガルドもしくはドルバルがそれを封じているのか――。 極北の地。吹雪の音。窓の外の蒼白と灰青色。 時に火がおこされる煖炉のオレンジ色の炎。 以前の自分を思うと信じられないことだったが、瞬は一日のほとんどすべてを寝台の上で過ごしていた。 ミッドガルドが瞬の許を訪れている時も、そうでない時も。 彼の他に瞬の許を訪れる者はなく、外の風景には何の変化もない。 白という色以外何も存在しない雪原の真ん中に一人きりで坐りこんでいるような錯覚に、瞬は日に何度も襲われた。 逃げ出すことは――少なくとも、その部屋の外に出ることは容易なことだった。 が、瞬にはそれはできなかった。 雪原に出るのは恐ろしかった。 雪と氷から成る果ての見えない白い大地は巨大な虚無のようで、その中に飲みこまれてしまうことを思うだけで、瞬は身体が震えた。 そして、ヴァルハラ宮の中を散策することは、ミッドガルドとの二人きりの日々を失うことに繋がっている。 ミッドガルド以外の人間に会い、何事かを知らされてしまったら最後、アテナの聖闘士に戻らなければならない自分を、瞬はよく承知していた。 いつかは終わることがわかっている永遠の中で、瞬は、ただ一つ受け入れられる“変化”としてミッドガルドだけを受け入れ、その変化以外、時の流れすら拒絶したような日々を過ごしていたのである。 「――こんなところにいたら、僕は気が狂う」 「たとえ、おまえの気が狂ってしまっても、俺はおまえを離すつもりはないから、それは覚悟しておくんだな、アンドロメダ」 「本当に狂ってしまえるなら――その上で君と二人でいられるなら、それって絶対の幸福とイコールだね。――違うよ、ミ……氷河……は、こんなところに何年もいて、よく気が狂わなかったなって、思っただけ……」 「正気に見えていたのか、キグナスが」 寝台の上に身体を起こした瞬が身に着けようとして肩に羽織りかけていた白いビロードのローブを、氷河は横になったままの姿勢で、引き裂くように奪い取った。 そうまでして手に入れた獲物を、さっさと床に投げ捨てる。 「奴が正気だったとは、俺には思えんな」 力任せにその腕を引いて瞬の身体をもう一度横にし、瞬の脚の線を指でなぞりながら、ミッドガルドは、注視していなければ見逃してしまいそうなほど微かな嘲りの笑みを、その口許に浮かべた。 「何もないだろう、 喉の奥で、ミッドガルドは自嘲気味に――否、他人事のように笑った。 「ふん。雪と氷しかない場所から、突然陽の射す草原に引っぱり出されて、目がくらんだのさ、あの臆病者」 「……自分のことじゃないみたいに言うね。なぜ そんなことを――僕に言うの」 身体をよじるようにしてミッドガルドの愛撫を遮り、僅かに息を乱しながら、瞬は彼に尋ねた。 瞬のさりげない抵抗など意に介したふうもなく、ミッドガルドが、更に瞬の奥深い場所にその指を忍ばせてくる。 「あ……ん……っ!」 瞬はミッドガルドから顔をそむけて横を向き、唇を噛んで、その愛撫に耐えようとした。 肩は強張っていくのに、氷河の指が忍んでくる場所は、おそらくミッドガルドの意図している通りに熱く疼き始めている。 ミッドガルドを再び自分の中に感じる時を自分のその部分が心待ちしているのを、瞬は、微かな悔しさと共に自覚していた。 日を追うにつれ、あきれるほど感じやすくなっていく自らの身体が、愛しくもあり、屈辱的でもあり――瞬は、しかし、数分の後には、ミッドガルドを受け入れるために自身の身体の意思を放棄してしまっていた。 自分に覆いかぶさってくる男が誰でもいいとは思わないが、それが氷河なのかミッドガルドなのかということは、身体がここまで熱を持ってしまった今は大きな問題ではない。 「あああ……っ!」 時に焦らすように、また時には急きたてるように、瞬を責め、突きあげてくるその本人が、彼を求める声を洩らす瞬を望んでいるのだ。 羞恥心の入り込む余地など、この場この時にあろうはずがない。 「……っ!」 それ以上耐え続けることができず、まるで弓のようにそりかえっていた瞬の身体から力が抜けてしまっても、ミッドガルドはまだ瞬の中で力強い緊張を保っている。 それで また、瞬の内部は潤い、熱を帯び始め――ミッドガルドとの交わりはいつも、いつ終わりが来るのか、いつ終わらせればいいのかがわからないまま、気が付くと瞬は身体のすべての力を失ってしまっているのが常だった。 意識を取り戻した時いつも、愛しそうに自分の肩を抱き寄せているミッドガルドの腕がなかったら、瞬は、人間のあさましい本性をさらけださせる技巧に長けたこんな男とは、口をききたいとも思わなかっただろう。 「キグナスがどれほどおまえに恋こがれていたのかを知らせれば、おまえを手に入れたいの一念でドルバルに自分の意思を手渡してしまったのかもしれない俺を、おまえは愛してくれるようになるかもしれないだろう?」 「……」 瞬は、それには何も答えず、ミッドガルドの肩に頬を押しつけた。 「何とか言ったらどうだ、アンドロメダ」 「何か言ってほしいのなら、もう少し手加減して」 「加減を忘れさせるのは、おまえの方だ」 ミッドガルドが右手を、俯せに横になっている瞬のうなじに伸ばす。 そうして彼は、後ろから瞬の首を楓むように手の平を当て、瞬の横顔を枕に押しつけた。 「おまえは、キグナスが想像していたより、少し淫らだ」 「僕は、氷河が僕にこんなことするなんて、考えたこともなかったよ」 このまま命を奪われても平気だというような瞬の口振りに、ミッドガルドが苦笑を作る。 「刺のある待雪草のようだ、おまえは。昔に比べると随分負けん気が強くなった」 身体を起こし、瞬のうなじに唇を押し当て、味わうように口付けを繰り返しながら、ミッドガルドが囁く。 「俺だから、おまえはそうなんだ。これがキグナスなら、おまえは、さぞかしつつましく控えめに、奴に恥じらってみせるんだろう」 あらわになっていた背中にふわりと毛布を引き掛けてよこすミッドガルドに、瞬は目を見開き、それから幾度か瞬きを繰り返し、最後に睫毛を伏せた。 「氷河とミッドガルドは別人なの……?」 「おまえはどっちが好きなんだ」 ミッドガルドは瞬に答えを与えず、代わりに別の答えを求めてきた。 「もともとキグナスが気になっていたから俺に身を任せたのか、それとも俺が俺でなかったら――キグナスがキグナスのままだったら、一生奴とはただの仲間でいたのか」 「……」 瞬には返答のしようがなかった。 ミッドガルドが二者択一できることのように言う、その選択肢の二つともが、瞬には肯定できる答えだったのだ。 ミッドガルドも、瞬に答えを強要しなかった。 彼は瞬の脇に、自分の腕を枕にして、再び横になった。 「それぞれの修行地に、たった一人ではなく誰かと二人で送られていたら――と考えたことはあるか?」 「え……?」 瞬の返答を待たずに、彼は言葉を続けた。 「たとえば、キグナスがおまえと二人でシベリアに送られたのだったら――。こんな何もない、まるで自分の孤独を確認するためだけに地上に存在するような北の果てで、奴は それでも春を待ちわびながら日々を過ごすこともできていただろう。おまえはキグナスにとって春そのもの、それに象徴される緑の大地、そこに息づく花そのもので――おまえと二人なら、奴は、永遠に続くような冷たい冬にも耐えることができただろうに」 「……氷河は、このシベリアで、そんなことを考えて過ごしていたの」 否とも応とも言わず、ミッドガルドは目を閉じてしまった。 しばらくしてから、ぽつりと眩くように言う。 「雪と氷しか見えない灰色の場所に一人でいると、精神だけが浮遊していくように感じないか」 「……」 二人でいれば、そういうことにはならないのだと告げるように、ミッドガルドが瞬の身体を引き寄せる。 瞬は、頷くようにして、頬をミッドガルドの胸に押し当てた。 広い雪原。 どこまで行っても同じ風景しかないこの北の国では、考えることがすべて内にこもり、深く沈んでいく。 気付きたくなかったことに気付き、認めたくなかったことと正面から向い合わざるを得なくなる。 闘いと闘いの合間合間に、何を好んで氷河は この国にああもしばしば帰りたがったのだろう。 そうして彼は、いったいこの国で何を考えていたのだろう? (……哲学者向きの環境だと思うのに、シベリアから哲学者が輩出したっていう話は聞かないね……) 虚無、空転、内向――建設的な論理の構築に、この国の厳しすぎる寒さと変化の無さは、あまり向かないのかもしれない。 (……それとも生きていくことだけで手一杯になるのかな、誰もかれも、ここでは……) 「何を考えている」 てっきり眠ってしまっているのだと思っていたミッドガルドの声を、耳許をくすぐられるように感じ、瞬は微かに 「氷河のこと」 一瞬、間をおいてから、答える。 「そんな奴のことより、俺のことを考えろ」 「……うん」 ほんの少し戸惑ってから、瞬はそれでも頷いた。 煖炉の火が消えかかっている。 室内がただ灰色だけの世界になっても、二人でいられるのなら耐えることができる。 それだけは、瞬にもわかっていた。 |