その小宇宙に導かれ、瞬はまっすぐに、ミッドガルドと星矢、紫龍たちのいるオーディーン像の許に急いだ。
「瞬! 無事だったか!」
「アンドロメダ! 来るんじゃない!」
紫龍とミッドガルドの声が重なって響く。
瞬は闘いから気を逸らした二人に力なく笑いかけた。
「……ミッドガルド、もういいよ。もう氷河に戻って。僕は君と二人きりで時間を過ごして――過ごしていられて、それでもう十分なものを手に入れることができたから……。ミッドガルド……もう、氷河を――氷河を氷河に返してあげて」

星矢のすぐ脇に、ロキが倒れている。
どうやら残す敵は、既にドルバルひとりだけらしかった。
「俺はそんなことのためにおまえを自分のものにしたのではない! 俺は俺だ! キグナスの記憶を持っている、だが、キグナスとは違う人格だ。俺は俺以外の何者でもなく、俺自身として、おまえを――した」
ヴァルハラ宮を取り囲む谷を通り抜ける風の音に、ミッドガルドの声が切り取られ、聞きとれなかったその言葉に、瞬は切なげに顔を歪めた。

「僕も……本当は、ずっとミッドガルドにはミッドガルドのままでいてほしいと思っているのかもしれない。でも、ミッドガルド……」
瞬は唇を噛みしめ、チェーンを両手で握りしめた。
「でも、君は氷河じゃない。君は氷河に氷河を返してやらなきゃいけないよ」
「おまえは俺を否定するのか!」
「ミッドガル……」

否定したくはないのだと言葉にしかけた瞬に、ドルバルの小宇宙によって作られた大地を刺すように強大な空気のねじれが襲いかかってくる。
まだミッドガルドのままでいた氷河が、瞬を庇うために その身を盾にしたことを思えば、ドルバルの洗脳は実に人間らしいそれだったと言えるだろう。
それは、欲しいものを手に入れるために、他の何物をも顧みるなという暗示だったのかもしれない。
眼前でゆっくりと倒れていくミッドガルドに、瞬は呆然となり、星矢と紫龍は再びドルバルに向き直った。

星矢たちには今は何よりも、ドルバルを倒しアテナを救うことが大事だったし、瞬にはミッドガルドとの別れの方が重大事だったのだ。
星矢たちはドルバルを倒すだろう――という予感が、瞬の中にはあったから。

がくんと膝から力が抜け、瞬は倒れたミッドガルドの脇に跪いた。
「アンドロメダ……無事か」
「あたりまえだよ! 僕は……僕はアテナの聖闘士なんだからね! なまじなことで壊れるような心も身体も持ちあわせていない……!」
「そうは言っても……な……」
かすれた声で苦笑しながら そう言うミッドガルドの身体を、瞬は恐る恐る抱き起こした。
今度瞬と対峙する時自分がどうなっているのかを察しているらしいミッドガルドが、その手を瞬の髪に伸ばし、そして、束の問の恋人に尋ねる。

「キグナスが好きなのか、おまえは」
「そうだよ」
「俺を好きだったか、少しでも」
「とても」
瞬の瞳に涙がにじみ始める様に、ミッドガルドは力なく微笑んだ。
「――ならいい」
深い溜息を洩らし、ミッドガルドはゆっくりと目を閉じた。

「子供の頃に比べると、おまえはえらく勝気な奴になってしまったな……」
「うん……」
目を閉じたまま呟くミッドガルドに、瞬は頷いてみせた。
涙の雫が、ミッドガルドの瞼に一つ、こぼれ落ちる。
「それが心配だから言っておくが……。俺に義理や負い目を感じるな。俺がキグナスに戻っても、大人しく奴に身を任せろ。俺がおまえを自分のものにしたのは、キグナスがいつもそれを望んでいたからだ。多分キグナスは、俺の――ミッドガルドの記憶を持ったまま、アテナの聖闘士に戻る」
(でも、心と記憶は同じものじゃない……)
声にしかけた言葉を、瞬は喉の奥に押しやった。
表情を読み取られぬように、顔を空に向ける。

灰色の空が、東の方から青く変化し始めていた。
「――ドルバルは倒された。アテナが降りてくる。僕たちのシーズンは終わっちゃったみたいだよ、ミッドガルド……」
花々の咲き乱れる春の大地に一人きりでいるよりも、ただ白いだけの雪原に二人で身を寄せ合っている方が、どれほど人は幸福でいられるものだろう。
瞬は、一人きりで、むせかえるような緑の中に取り残されてしまった。






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