- II -






「――すまなかった」
日本に――城戸邸に戻り、身体の傷を癒した氷河が、最初に瞬に告げた言葉がそれだった。
「ドルバルに操られていたとはいえ、おまえに無体を働いた」
(操られて……?)
それは言葉が違う――と、瞬は心の隅で思っていた。
「憶えてるの、氷河」
「……ああ」
「そう……。でも、忘れて。なるべく早く」

明るい光が室内に満ちている。
“平和”という風景の、なんと気怠いこと――。
「……すまない、瞬」
「……」
やはり、心と記憶は全く別のもの――らしかった。
瞬は首を横に振り、全く意味のない謝罪の言葉を繰り返す氷河をその場に残して、ひとり部屋を出た。

城戸邸の庭にあふれている眩しい陽の光。暖かい微風。
痛みを感じることすらできない春は、それゆえに心を蝕むようだった。
(シベリアに……行きたいな……)
なんとはなく、そう思う。
思ってから、これではまるで以前の氷河のようだと、瞬は苦笑した。
だが、瞬は、そう願わずにはいられなかったのである。
誰か――ドルバルの代わりに誰かが、シベリアの大地にうずくまったままの自分の心を解放してくれないものか――と。

(そうしたら氷河をどこかに閉じこめて、氷河を一人占めして――僕は、ミッドガルドと同じことをしてしまうかもしれないね……)
世界を手中に収めたいという野望など、人をひとり、自分だけのものにしたいという欲望に比べれば、他愛のない望みだと思う。
人間という存在を望む心ほど、底がなく どろどろした思いはない。

(早く……新しい敵が現れないかな……)
アテナの聖闘士にあるまじきことを考え、瞬は思いついたように裸足になり、柔らかい下草を踏みながら、城戸邸の庭の木立ちの中を歩き出した。
素足に、木陰の冷たい草の感触が、ひどく心地良い。
(駄目だね。氷河を見てると、切ないよ……)

氷河が忘れていないように、瞬も忘れてはいなかった。
すべてが元に戻ったようで、実はすべてが変わってしまっていた。
氷河でない人間に身を任せ、心まで預けていたあの冬の日々に、瞬は、純粋に氷河を見ることも求めることも禁じられてしまったのである。
「多分、本気で好きになっちゃってたんだよね、僕……」
「誰をだ」

眩しい木洩れ陽を避けるように目を閉じて、大きな喬木の幹に身体をもたせかけ、瞬が虚空に向かって眩いた言葉。
その言葉を咎めるように、苛立たしげな氷河の声が響いてきたのに驚いて、瞬は弾かれたように後ろを振り返った。
そこに、いつになく険しい表情の氷河の姿を認めて、息を飲む。
「誰を、だ」
たたみかけるように問い詰めてくる氷河に、そして、瞬は覚悟を決めたのである。
これは、いつまでも うやむやにしておけることではない。
自分と氷河との距離は、早く確定させてしまった方がいいに違いない――と。

「ミッドガルドをだよ、氷河」
自らを励ますために、それは、少し挑戦的な口調になっていた。
「奴はもういない」
「いるよ。そこに」
微動だにせず、そう言い切る瞬に、氷河は微かに眉をひそめた。
今 氷河の目の前にいる瞬は、氷河の見知っている瞬とは、どこか何かが微妙に違っていた。
「ミッドガルドの身体とミッドガルドの記憶と、ミッドガルドのものでない心を持った人が」
造りの美しすぎる人形のように、瞬には表情がなかった。
「ここにいるのは俺だ」
「……そうだね、氷河はミッドガルドじゃない」

なぜ瞬は、まるで何かに怯えるように肩を強張らせているのか。
氷河には、その訳がわからなかった。
「でも、氷河が僕の側にいる限り、僕は氷河の中にミッドガルドを見ることになる」
何を、瞬が言おうとしているのかを、氷河には察することもできなかったのである。

氷河は、自分がミッドガルドとして存在していた時の記憶を持っていた。
ミッドガルドは、“氷河”にとって瞬がどういう存在であったのかを、瞬の前に暴露してしまった。そして、瞬にとっての氷河が何物であったのかを推察し、ミッドガルドは嫉妬まじりにその事実を認めていた。
ミッドガルドという存在してはならない人格が消え去ってしまった今、それは、氷河にしてみれば当然の期待だったのだ。
互いが互いをどう思っているのか、そして、互いが互いに何を望んでいるのか――を、自分たちはもう知ってしまっているのだから、瞬は何も言わずに自分を――氷河という男を――受け入れてくれるだろう――という思いは。
ミッドガルドを“氷河”と同じ人物と認めたからこそ、瞬はあの男を受け入れたのだろうから――と。

幼い頃の思い出から、瞬を自分のものにしてしまいたいという“氷河”の望みまで、瞬は、今はすべてを知っている。
氷雪の聖闘士が、時を見付けてはシベリアに行っていた理由。
そこで“氷河”が考えていたこと。
死んでしまった人間に思いを馳せることがなかったと言えば それは嘘になるが、期待を含んだ欲望というものは、本来生きている人間に対して向けられるものである。

「瞬。ミッドガルドの件は幾度でも謝罪する。だから、そんなことは忘れて、俺を――」
差し延べた手をぱしんと音をたてて払いのけられ、氷河は初めて気付いた。
瞬が、唇を噛みしめ、肩を小刻みに震わせていることに。
「瞬……?」
「僕は……ほんの二・三日前まで、ミッドガルドといたんだよ……! それで、彼と、か……身体を重ねていた……」
「だから、その件については謝罪すると――」
「そうじゃなくって……!」
もどかしげに、瞬は自分の手をきつく握りしめた。
「つい数日前まで氷河じゃない人が好きで、その人と一緒にいて、だのに、その人がいなくなったからって、それが当然のことみたいに今度は氷河を受け入れてたら、僕、まるで売女と同じじゃない……!」
「それは……そんなことは――」

瞬のためらいと混乱の理由は、氷河にもわからないわけではなかった。
しかし、氷河にはそれは大きな問題ではなかったのである。
瞬は、“氷河”とミッドガルドを完全に別の人格とみなしているらしいが、氷河にはその二つを完全に別のものと分けてしまうことはできなかった。
ミッドガルドは以前から氷河の中にいた。
六年の年を経て瞬と再会したとき、それ・・に気付いた。
多分それは、もっとずっと以前から、氷河の中に潜んでいたに違いない。
自分が求めている人間に、自分を愛してもらいたいという、それは誰もが抱く当然の願望だった。
「おまえは俺が嫌いなのか。そうなってしまったのか」

それがどういう種類のものであれ、瞬が自分に好意を持っていてくれるということを、氷河は知っていた。
とはいえ、その好意は、自分が瞬に対して抱いている感情とはおそらく全く次元の違うところにあるものだろうと、氷河は思い続けていた。
瞬が自分と同じように、友情とは異なる好意を白鳥座の聖闘士に抱いてくれているのかもしれないということには、氷河は たった今も確信を持てずにいた。
だが、瞬は、ミッドガルドにはそれを与えたのだ――。

抑揚のない、それでいて切羽詰まった感の強い氷河の声音に、瞬はしばし言葉を詰まらせた。事実を告げるのが、ひどく辛いことのように思われる。
「好きだよ! なんでそんなこと言うの !! 」
口にした途端、言葉はほとばしり出たが。
「氷河が僕を置いてシベリアに行っちゃってる時だって好きだった。ミッドガルドと二人でいる時だって好きだった。ミッドガルドがいなくなってからも、たった今だって、僕は、もうどうしていいのか わかんないくらい氷河を好きだよ!」
「なら、俺は、おまえがミッドガルドを好きなままでいても一向に構わん」

瞬の内にわだかまっているミッドガルドという障壁を取り除きさえすれば、瞬を手に入れることができる。
おそらく永遠に手に入れることは叶わないと諦めかけていたものが、小さな障害を一つ隔てたところに在るのだ。
些細な不都合にこだわり、それを逃すような愚を、氷河は犯したくなかった。
きっぱりと言い切る氷河に、瞬が眉根を寄せ、微かに首を左右に振る。
「僕が構うんだ……。そんなの許せない」
「……」

頑なな瞬の言葉が、氷河はじれったくてならなかったのである。
ミッドガルドの前で、瞬はもっと柔軟な態度を示していたではないか。
自分では抑え難い苛立ちにかられ、氷河は何も言わずに、力の加減も考えず、瞬を抱きしめ、その唇を奪った。
仲間の胸から逃れようとする瞬を逃がすまいとして不自然なほどに腕に力を込め、瞬が顔をそむけようとするたび、その唇を追いかけ、捕らえ、氷河は幾度も瞬に口付けを繰り返した。

「いつもおまえを見ていた。おまえを俺の側に置き、おまえを俺のものにし、子供の頃 意地を張って間違って示していたおまえへの態度を正したかった。おまえだけが俺にとってただ一人の、大切な生きた人間なんだということを、おまえに伝えたかった。自分でも制御しきれないこんな激しさを おまえにぶつけてしまったら、おまえは怯えてしまうに違いないと思って、おまえを避けもした。シベリアに逃げもした。ミッドガルドがおまえを抱いている間、俺は奴の中に押し込められて、奴の中で、俺の瞬に触るなと叫んでいた。隠し通そうと思っていた俺の思いを、おまえに暴露してしまったのはミッドガルド自身だ。それで俺がおまえを手に入れたからといって、奴に何を言う権利があるというんだ……!」

氷河から――ミッドガルドではなく氷河自身から――知らされた彼の激情に、心が動かなかったといえば、それは嘘になる。
だが瞬は、それでも氷河の腕から逃れようとして もがき続けた。
「そうじゃない……!」
氷河は瞬を解放してくれそうになかった。
だが、あまりに瞬の声が苦しげだったせいか、彼はほんの少しだけ瞬を捕えていた腕からカを抜いてくれた。
幾分身体の自由を取り戻した瞬が、切なげに氷河を見あげる。

「そうじゃなくて……。ミッドガルドでも氷河でもなく――僕は僕がわからない。僕は今までずっと氷河が好きだった。こんなふうに好きだったなんて考えたこともなかったけど、でも氷河が好きだった。けど、そのことにも自信がなくなりそうで――。だって、僕は……だって、どうして僕はミッドガルドを好きになったの……?」
「……」
見あげた先にある氷河の瞳に、ミッドガルドのそれに似た色を見い出して、瞬はすぐにその瞼を伏せることになった。
「僕は、ミッドガルドと氷河は別の個人だって認識してて、友だちじゃないものとしてミッドガルドを好きになった。今もその気持ちに変わりはないのに、だのにどうして同じように氷河を好きでいるのか、僕は自分で自分がわからないんだ……!」
「瞬……」

それは、瞬が戸惑うべきことだろうか。
瞬は、それでもミッドガルドと氷河は同じ人間なのだと、自分に言いきかせていればいいのである。
ミッドガルドの存在を確かなものと実感し彼を憎み妬むのは、瞬ではなく“氷河”がすべきことだった。
が、その憎い男の存在すらも、今の氷河にとっては大した問題ではなかったのである。
ミッドガルドはもう目覚めることはない。
瞬が自分を好きでいてくれるのなら、既にこの地上に存在しない人間を瞬がどう思おうと、氷河にはそれはさほど重大なことではなかった。
まして、瞬が思いをかけているそれは、ほとんど自分自身と同じもの――ではないか。

「もうおまえはミッドガルドに会うことはない。すぐに忘れる。俺が忘れさせる。だから、忘れてしまえ……!」
まるで自分にくくりつけるように瞬の背にまわしていた腕を、氷河は ゆっくりと解いた。
それでほっと息をついた瞬の肩を掴み、瞬の背後にある喬木にそれを押しつけ、瞬に身動きをとれなくさせてから、氷河は彼の首筋に顔を埋めた。
「ひょう……が……」
途端に瞬の両足からは、力が抜けてしまったのである。
瞬は、自分の背に当たる木に全身をぶつけるように倒れかかっていった。
少し、目眩いがした。

氷河の胸や腕を押しやろうとは思うのだが、半ば彼に抱きあげられ、かろうじて爪先が下草に触れているだけの素足には、まるで力が入らない。
目を閉じても木洩れ陽がちらちらと眩しく、風にざわつく葉擦れの音がする。
本当は――瞬は本当は――このまま大人しく氷河にすべてを任せてしまいたいと思ったのである。
(でも、僕はこんなで、ミッドガルドのこと思い出すと今でも切なくて、だから……)
「放して、氷河」
これまで どんな時にでも巧みに平静を装い続けていた氷河が、今 これほど性急に自分を求めてくるのは、ミッドガルドのせいだと――うぬぼれているわけではなく――それはミッドガルドヘの嫉妬のせいだと、瞬にはわかっていた。

「氷河……。こんなことで忘れるなんて無理だよ。僕……は、逆にミッドガルドを思い出す。そんなのは、氷河だって嫌でしょう?」
なるべく落ち着いた調子で伝えようとしたその言葉は、その声は、それでもどこかぎごちなく、かすれていた。
氷河が、瞬の肩や胸元をたどっていた唇を離し、大人しくしていない瞬の唇をふさぐ。
「俺では嫌なのか」

ミッドガルドが――自分以外の男が――瞬の身体を開き、支配していく様を、手の届かないところでただ見ているしかなかったヴァルハラ宮での屈辱――を、氷河は忘れてしまいたかった。
否定してしまいたかった。
ミッドガルドと同じ腕、同じ唇、同じ指――だが確かに自分自身の意思と心を持って、氷河は瞬を自分の中に取りこみたかったのだ。
瞬が落ち着くのを持つだけの余裕を、今の氷河は持っていなかったし、その時間も、彼には苦痛の材料でしかなかった。

「あ……」
険しい色の氷河の瞳に見おろされ、瞬は身体をすくませることになったのである。
かろうじて首を振り、氷河の懸念を否定することができたのは、彼の瞳の中に、ミッドガルドにはなかった明るい青が混じっていることに気付いたからだった。
混乱していた思考が、少しだけ、平静を取り戻してくる。
「いや……なんかじゃない……。僕、氷河になら何されてもいいんだ……。ほんとだよ、ほんとにそう思ってる……」

ミッドガルドとのことがなければ気付かなかったし、そういうふうに氷河を受け入れることなど、瞬は考えもしなかったろう。
今、自分を抱きしめている腕の持ち主はミッドガルドではなく氷河なのだと明確に認識した途端、かっと頭に血がのぼり――そうして、瞬は、自分の様子が変だということに気付いたのである。
立っているのがやっとなほどに足が震え、足ばかりか全身が、かたかたと はっきり音として聞きとれそうなほどにわなないている。
(え……?)
それは、あれほど自然に、臆することもなくミッドガルドに抱きしめられ、彼を受けとめていた者の反応とも思えなかった。

「瞬……」
耳元で低く名を囁かれ、瞬は今度こそ本当に自分の意思を放棄してしまいそうになった。
このまま氷河にすべてを委ねてしまえば、今自分を苛んでいる苦しみから――なにもかもから――自分は逃れることができるのだと、一瞬間だけ瞬は逡巡した。
氷河のために――そうすることはできないのだと、瞬はすぐに自分自身を戒めることになったのだが――。
それでも、声は震えた。

「ひょ……が……に……逃げない……。逃げないから、ちょっとだけ放して。足……痛い……」
「足……?」
氷河が瞬の背とうなじにまわしていた腕から力を抜く。
瞬が素足でいることには、氷河も気付いていた。
「怪我でもしたのか……?」
そう言って、氷河は瞬の足元に片膝をつこうとした。
途端に瞬が、ぱっと喬木の向こう側にまわる。

「瞬……!」
「ごめんなさいっ !!」
自分を捕まえようとする氷河の手を、ぎりぎりのところですりぬけて、瞬は城戸邸内に向かって駆け出した。
冷たい下草に覆われた小さな林を抜けたところには、砂が敷きつめられた庭園があり、その砂が、まるで濡れた浜辺を走っているような錯覚を覚えるほど、瞬の足を重くした。






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