瞬が目覚めていることに、氷河は気付いていた。
気付いてはいたが、気付かぬ振りをしていた。
今 瞬の肩を抱いている男はまだ夢の中にいるのだと瞬に思わせておくため、無意識を装って瞬を更に抱き寄せたりもした。
拒むこともならず、瞬が肩を丸め、身体を縮こまらせる。

氷河は、自分の腕や胸で、それをじかに感じていた。
目を開けて瞬を見ることに、氷河はためらいを覚えていたのである。
何故もっと辛抱強く、瞬がミッドガルドヘのこだわりを捨ててしまえるようになるまで時を待たなかったのか。
もっと穏やかに――瞬を泣かせたり怯えさせたりすることなしに、瞬をその胸に抱くことは、おそらく時を重ね、時を待てば、可能なことのはずだったのだ。

瞬は、氷河の胸の中で幾度も小さな溜息を洩らしていた。
そのたびに、僅かにとはいえ、性急にすぎた恋人の鼓動の波が大きくなっていることに、瞬は本当に気付いていないのかと、氷河は懸念し、疑っていたのである。
「氷河……起きて」
十数回を数える嘆息の後、瞬は、いかにも恐る怒るといった小さな声で、囁くように氷河の名を呼んだ。
自分の横にいる男が、なかなかに寝穢いぎたない男であるらしいことを知った瞬の声が、段々と大きくなる。
「起きてよ、氷河! お願い……!」

胸を小突かれ、肩にまわしていた腕を外されて、氷河はこれ以上空寝を続けることは無理と悟り、覚悟を決めて、閉じていた瞼を開けた。
裸体を氷河の目にさらすのは気まずいらしく、瞬は氷河から少し離れたところで横になったまま、彼の旧友を見あげていた。
氷河が目覚めてくれたらしいことに安心したような、戸惑ったような瞳で、次に瞬が氷河に告げた言葉は、彼には非常に思いがけないものだった。
「氷河、い……いったい、タベ何があったの……?」
と、瞬は氷河に尋ねてきたのだ。

そう尋ねた瞬自身、現状が、何があったのかをわざわざ尋ねなければならないようなものでないことは承知していたらしい。
氷河の答えを待たずに、瞬は、頬を真っ赤に染めて、更に たたみかけるように氷河に尋ねてきた。
「氷河、いつシベリアから帰ってきたの。僕、どうして……。僕、氷河に何か、その……何か我儘を言ったの……?」
「我儘……?」
氷河の思考は少しずつ混乱し始めていた――かもしれない。
昨夜のことを、瞬は何も憶えていないのだろうか――?

「シ……シベリアに……氷河がシベリアに行かないでくれるのなら、僕、何でもするとか言っちゃったんでしょ……」
瞬の口振りから察するに、瞬はいつもそんなことを考えていたものらしい。
氷河は、少し注意深く、探るように瞬に尋ねてみた。
「ミッドガルドを憶えていない……のか……?」
「ミッドガルド?」
なぜ氷河が急にそんなことを尋ねてきたのかということよりも、服を着けずに氷河と同じベッドにいることの方が気掛かりらしく、瞬はどこか上の空といった様子で、問われたことへの答えを口にした。
「ミッドガルドって、北欧神話か何かに出てくるあれでしょ? 神々が作った人間の住む国――」
「……」

瞬の言葉、この事態を喜んでいいのかどうか――が、氷河にはすぐにはわからなかったのである。
だが、瞬が、ヴァルハラ宮での出来事やミッドガルドの存在をすっかり忘れてしまっているのは、どうやら確かな事実らしい。
しかも、昨夜の記憶がないことを、瞬はあまり不思議なこととも思っていないようだった。
瞬は、自己防衛のために、自らの記憶を消し去ってしまった――とでもいうのだろうか?
もし、そうだというのなら――。

(もし、そうなら……?)
もしそうだというのなら、ミッドガルドであった男と瞬の間からは、すべての不都合が綺麗に取り除かれてしまったことになる。
完全に納得ができたわけではなかったが、氷河は、この現実を、そういうものと受けとめ、受け入れてしまうことにした。

手を、瞬の肩に伸ばす。
瞬は、少しだけ、その手を避けるように身を引いた。
氷河の手が、その肩に触れることができる程度に。
「タベのことは、俺が望んだんだ。おまえは嫌だったのか」
ほんの短い時間考えこんでから、瞬が首を横に振る。
「僕……氷河がシベリアに行ってる時、変になるんだ。いらいらして、自分ではどうしようもないくらい、辛くて寂しくて……。僕、多分、嫌じゃなかったと思う……」
なにしろ記憶の残っていないことなので自信はなさそうに、それでも瞬ははっきりとそう言った。
「氷河――を、シベリアに取られるのは嫌だ。僕、氷河に側にいてもらうためにだったら何だってするよ」
「……」

ずっと――おそらく瞬は、もうずっと長いこと、そう思ってくれていたのだろう。
それでも逃げ腰になる瞬を捕まえ、氷河は彼をそっと抱きしめた。
「じゃあ、もう一度、おまえをくれ」
「え……?」
戸惑い、ぱっと頬に紅を散らし、だが、瞬は数秒後には、唇を結んで目を閉じた。
昨日までの頑なさが まるで嘘のような、瞬の素直と従順。
瞬のあまりの変貌に、氷河は軽い目眩を覚えさえしたのである。

なぜ こういうことになったのか、やはり氷河には得心できなかった。
すべてが望んでいた通りの現実――。
まるで初めて人と肌を合わせる幼い恋人のように、抱きしめた瞬の身体は小刻みに震えていた。






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