「──こういうことは実に訊きにくいんだが、おまえ、タベはどこにいた」
何もかもが丸く収まったからといって、口元を緩めていたつもりもなかった氷河は、翌朝顔を合わせた途端に紫龍にそう尋ねられ、心の内で僅かにたじろいだ。
自分から宣伝して歩く気はなかったが、隠しだてするつもりもなかったので、あっさりと真実を彼に告げる。
「瞬の部屋だ」
「何か変わったことはなかったか」
即座に飛んできた次なる質問に、氷河は今度は顔を歪めてしまったのである。
なんという不粋なことを訊くのだと、こういう場合は、氷河でなくても、そう思っただろう。

それを見てとって、紫龍が咳払いをし、言葉を継ぎ足す。
「夜中の二時頃」
「二時?」
何故時間が限定されるのか――と、氷河は訝った。
彼の反間に、紫龍が、先程よりは滑らかな口調で説明を始める。

「タベ 二時頃、瞬の部屋の辺りで、おまえのものでも瞬のものでもない小宇宙を感じた……。ひどく強い小宇宙でな、大きく爆発したかと思うと、すぐに消えてしまった」
「なに……?」
「俺たちは敵の襲撃があったのだと思った。あれは本当に強大な小宇宙だったから――俺も星矢も驚いて部屋から飛び出したし、沙織さんもやって来て――」
そこまで言ってから、紫龍はひどく気まずそうに口ごもった。
「ドアをロックしていなかったおまえたちが悪いんだぞ」
「……」
氷河は、やっと紫龍の不粋で突拍子のない質問の理由を理解した。
つまり、――なのだ。

「ともかくその中心は瞬の部屋なんだからと、中を覗いてみたんだ。そうしたら……」
「俺と瞬が寝ていたわけか」
「それも、えらく幸せそうな顔をしてな」
「それは――」
続く言葉が出てこない。
結果として黙り込むことになった氷河を見て、紫龍はいたく真面目な顔つきになった。

「ミッドガルドの小宇宙に似ていた。俺たちはそれで不安になったわけだ。もしかしたらまた、おまえたちがどうにかなってしまったんじゃないかと――」
「――おまえたち・・……?」
「そう、おまえと瞬がドルバルに操られていた時のように、だな。つまり」
「“たち”……とは、どういうことだ」
「……?」
紫龍は一瞬不思議そうな顔をして、かつて一度はアテナに対して造反を企てた仲間の顔を見やった。それから、しばらく彼は、何をどう言えばいいのかを考え込んでいるような素振りを見せた。
ややあってから、やっと口を開く。

「瞬だったろう?」
「何がだ」
「瞬も、ドルバルに変えられていただろう?」
「なに……?」
氷河がその事実に気付いていなかったということを、紫龍は考えてもいなかったらしい。
少し呆れたように、彼は両の肩を軽くすくめてみせた。
「おまえが――ミッドガルドが瞬を連れていった後、ドルバルは俺たちに、アテナの聖闘士たち・・を操るなど造作もないことだと高笑いして、アテナを侮辱したぞ」
「……」

それで、初めて氷河はすべてを理解したのである。
ヴァルハラ宮での瞬と、城戸邸に戻ってからの瞬――その変化と、昨夜を境に瞬の記憶がすっかり消えてしまったその訳を。
ミッドガルドは気付いたのだ。
ヴァルハラ宮での瞬が、本来の瞬ではなかったということに。
おそらく、日本に帰ってきて、瞬の様子を氷河の中でじっと見詰めているうちに、彼は気付いた――気付いてしまった。
瞬が自分に惹かれ、自分を受け入れてくれたのは、瞬がその何かをドルバルによって変えられてしまっていたせいだったのだということに。

瞬の記憶は、瞬自身に消されたのではない。
そんなまがい物の思いに捉われて瞬が不幸になるのを恐れたミッドガルドが、氷河の内に残っていた己れの全小宇宙を燃やして、それを除去してしまったのだ。
「そうか……」
紫龍にとも自分自身にとも、そして、自分の内に眠るミッドガルドにともなく眩き、氷河は僅かに顔を歪ませた。

「おまえたちがおかしくなっていないというのなら、別にいいんだがな、氷河。ただ瞬は――」
紫龍は言葉を途切らせ、ベランダの向こうに見える城戸邸の庭に視線を移した。
雪も氷もない、春の、明るい緑色の――風景。
「おまえがシベリアに行っている時の瞬は、いつも心ここにあらずで、どこか危なっかしくて――俺たちは安心して見ていられなかった。だから、瞬はドルバルに乗じる隙を見せてしまったのだと思う。おまえ、もう少し考えてやれ」
「……」

瞬の側にいるのが苦しくて白鳥座の聖闘士がシベリアに逃げ込んでいた間、瞬は自分の側にいてくれない仲間に苦しんでいた。
瞬への思いが辛いばかりで、瞬が己れの無力を嘆いていることになど、氷河は気付いてもいなかった。
ドルバルは、瞬の心の隙を狡猾に利用し、一時いっとき その心を支配したのだ。
瞬自身、その事実に気付かぬほど、その思いは瞬のすぐ側にあり、自然なものだったに違いない。
自分の感情をもてあまし、それをなだめるのに手一杯で、そんなことにすら気付かずにいた自分自身が、氷河は情けなくてならなかった。
シベリアに赴く自分を見送る時の瞬の寂しげな表情を、氷河はただの社交辞令、もしくはその時のためにだけ無意識の内に作られたものと思い込んでいたのだ。

「紫龍、沙織さんが……」
今更ながらの氷河の苦い後悔は、ふいにラウンジに飛び込んできた瞬の声によって、中断させられた。
「あ……氷河もいたの……」
そこに、今朝初めて――生まれて初めて――肌を合わせた男の姿を見い出して、ぱっと頬を上気させ、瞬はさりげなく彼から視線をそらした。
「沙織さんが、今度のギリシャ行きのことでみんなに話があるって……」
「ああ、今行く」
意図してのことではなかったとはいえ、昨夜瞬の仲間たちが、瞬と氷河のとんでもない場面を覗き見てしまったことを瞬に知らせることはあまりよろしくないだろう――と、紫龍は考えたのだろう。
彼は瞬に空返事を返すと、そのまま そそくさとラウンジを出ていった。






【next】