カルカソンヌに着いたのは、夜半過ぎだった。
「――瞬。瞬、目を覚ませ。着いたぞ」
「ん……もう着いたの。早かったね」
運転を人任せにしておきながら、『もう着いたの』も何もないものだが、氷河は腹を立てる気にもならなかった。
手の甲でこしこしと目を擦る瞬の仕草が、まさに“仔猫ちゃん”で、こんな何気ない仕草すら、氷河には滅多に拝めない有り難い光景だったのだ。
しかし、瞬の方は、自分の目に見えない自分自身の仕草などより、視界に入る夜のカルカソンヌの方が余程魅惑的だったらしい。
「すごい……綺麗なお城…」
沙織が手配しておいてくれたホテルは、カルカソンヌ城塞都市を一望できる小高い丘の上にあった。
車を降りた氷河と瞬は、その丘の頂から、城塞都市カルカソンヌの全容を眺めることができたのである。
十三世紀初頭には、法王インノケンティウス三世の号令で組織されたアルビジョア十字軍によって、血で血を洗う陰惨な異端弾圧と大殺戮が行われたカルカソンヌも、今はフランスで一、二を争う観光都市である。
全長三キロを越える二重の城壁と、城塞内にあるコンタル城は、ディズニーランドのシンデレラ城もかくやとばかりにライトアップされ、春の夜の中に幻想的な威容を浮かびあがらせていた。
その壮大さと夢幻のような美しさに、瞬はすっかり目が醒めてしまったらしい。
「すごい……。ただのお城じゃなくて、ほんとに都市なんだね。あの城壁の中に街があるの……」
普通の城が軽く十個は収まりそうな、大規模な中世の都市。
それがそのままこの現代に残っているということ自体が、奇跡に思える。
瞬は、それきり言葉もなく、幻想に満ちた歴史的遺跡に見入っていた。
「フランスには、“カルカソンヌを見ずして死ぬことなかれ”という言葉があるそうだぞ」
“日光を見ずに結構と言うなかれ”みたいなもんだ――と、氷河は続けることができなかった。
なにか、この城塞都市には、そんなジョークがふさわしくない峻烈さが備わっていたのだ。
にも増して、幻想的な夜の城を食い入るように凝視している瞬の真剣な横顔に、氷河は胸を突かれたのである。
瞬が、このまま、この幻想の城に取り込まれてしまうような錯覚を、彼は覚えた。
「瞬……!」
全く根拠のない不安に襲われて、氷河がその手を瞬の肩に伸ばす。
突然氷河に抱き竦められた瞬は、平生の彼らしくなく数秒間の長き(?)に渡って、氷河の腕の中に大人しく収まっていた。
まるで、幻想から現実に、中世から現代に、自分を引き戻してくれた男の体温に安堵を覚えたかのように。
が、氷河の幸福な数秒間は、瞬く間に過ぎ去った。
現実に立ち返った瞬が、自分の肩を抱きしめている男の足を、目一杯踏みつける。
それから、瞬は、
「ったく、油断も隙もないんだからっ!」
と、肩を怒らせながら、ホテルの正面玄関に向かって大股で歩いていってしまった。
あとには、派手々々しいメタリックブルーのシトロエンと氷の聖闘士、そして、綺麗なカップルのラブシーンと決裂シーンにあっけにとられたホテルの送迎係だけが残されることになったのだった。






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