シュンの意識を現実に引き戻したのは、遠い波音のように聞こえる十字軍兵士たちの勝鬨と、身体に馴染まぬ寝台の柔らかさだった。
高名なカタリ派聖職者ギラベール・ド・カストルによって慰藉式を受けてから、カタリ派の清貧の掟に従って、生活の全てを、富裕なトランカヴェル家の子弟のそれから質素なカタリ派完徳者のそれに変えたのは十一歳の時。
以来、衣食住全般を簡素にし、それまで、トランカヴェル家当主たる兄から与えられていた安楽な生活を放棄した。
もっとも、カタリ派完徳者にふさわしい質素な生活の場というのも、結局はシュンの兄がシュンのために用意してくれたものではあったが。
ともあれ、今シュンの身体を受けとめているのは、この三年間使い慣れた堅い木の寝台ではなく、カタリ派に入信する以前の十一年間シュンの身体を柔らかく抱きとめ続けていた富裕な貴族の子弟のそれだった。
シュンは一瞬、過去に戻ったような錯覚に陥った。
何も考えず、ただ兄の愛情をその身に受けとめることだけが唯一の義務だった幸福な時期に。
だが、あの幸福な季節はもう永遠に取り戻すことはできないのだという事実を、シュンはすぐに思い出した。
幸福な死から辛い現実へとシュンを引き戻した青い瞳の騎士が寝台の傍らに立ち、死に損なった者を無言で見降ろしているのに、シュンは気付いた。
この若い騎士が何者なのかはわからなかったが、今こうして自分が生きていること、そして周囲が静寂に満ちていることからして、自分は政治的配慮から生きたまま捕らえられ、兄の城からどこか他の場所に移されたのだろう――と、シュンは察した。
となれば、この青い瞳の騎士は、天使どころか兄の仇の片割れということになる。
「僕を生かしておいても、あなた方には何の益もありません」
なるべく冷たく聞こえるように、シュンは意識してゆっくりと彼に告げた。
何を言っても甘く響くと評されてきた声で、敵に侮られないために。
「気がついたのか」
騎士の低い声は、思いの他穏やかで気遣わしげで、シュンの耳には、それこそ優しく甘く響いた。
これが本当に、ベジエの町で――そして、おそらくカルカソンヌ城内でも――男女の区別も老若の区別も信教の区別もなく殺戮を欲しいままにしたアルビジョア十字軍の一人なのかと疑うほどに。
「怪我はないか? なるべく注意して運んできたんだが」
城壁内で繰り広げられる虐殺と略奪の嵐を掻いくぐって――とは、ユーグは言わなかったし、シュンもまた尋ねなかった。
シュンが神の御使いと見間違えた騎士は、シュンの兄とあまり変わらない歳頃の若々しい青年だった。
肩にかかるほどの長さの金色の髪は、シュンがこれまで見たことのある金髪の中で最も明るい輝きを放っている。
甲冑も鎖帷子くさりかたびらも外し、身軽な木綿の上衣を身に着けていた。
「あなた――はどなたです? どうして僕を連れだしたの?」
シュンは恐る恐る寝台の上に上体を起こし、騎士に尋ねた。
望まぬこととはいえ、あの落城寸前の城から危険を冒して脱出させてくれた人間を相手に、そう冷淡な態度をとるともできない。
その切なげな瞳と甘い声が、この騎士の心に及ぼす作用など、シュンは考えもしなかった。
だが、ユーグの方は、つい先程まで神に最も近い場所にいたはずの清らかな天使が、柔らかい声と身体とを持って地上に降り立った様を見ているような気分だったのである。
天使ではない。
天使のように清らかな瞳と頬を持ってはいるが、これは天使ではない――と彼は思った。
レーモン・ロジェ・トランカヴェルほどの騎士が惑わされても不思議ではない。
むしろ惑わされぬ者がこの世に存在し得るのか? ――とさえ。
(ブルゴーニュ公たちが、保身のためにレーモン・ロジェを見殺しにしておきながら、命の危険を冒してまでこの子の救出に向かったのは、この子が天使ではなく人間だということを知っていたからなのかもしれない……)
「あの……あなた――は……?」
黙り込んでしまったユーグに戸惑ったように、シュンが再び問いかける。
ユーグは、はっと我に返った。
「どこか痛むところがあるか? 君のような子には耐えられないかもしれないが、これでも法王使節の無意味な大荷物の中から一番上等の羽布団を運んできたんだ」
「……」
その言葉に、シュンは軽い失望を覚えた。
目覚めて最初に聞いた、残虐な十字軍騎士の一人とも思えない気遣わしげな声に、シュンは微かな期待を抱いていたのである。
もしかしたらこの騎士は、いざという時のために兄が敵軍に紛れ込ませておいた味方、なのではないかと。
だが、カタリ派完徳者の生活を知らないこの騎士が、兄の息のかかった者であるはずがない。
柔らかい寝台など、カタリ派の完徳者にとっては、神から遠く離れるための道具でしかないということも知らないのでは。
「では、兄さまはやはり僕が行くのを待ってらっしゃるんですね……」
「なに?」
シュンの呟きに、ユーグが僅かに眉をひそめる。
それはどういう意味かと尋ね返そうとした時、二人のいる部屋の扉の向こうから、甲冑の触れ合う音と野太い声が聞こえてきた。

「モンフォール殿。では、明日にはカルカソンヌ入城ということに?」
「ふん。ブルゴーニュ公、ヌヴェール伯、サン・ポル伯、いずれも自分たちの裏切り行為に今更怖じ気付いたのか、トランカヴェル家の領地はいらぬと言い出したのでな。法王は、私をカルカソンヌとベジエの領主に任命されたのだ。まもなく、トランカヴェル家の広大な領地の全てが私のものになる。――ユーグ!」
豪胆な響きの声の主は、先触れもなくどかどかと、ユーグの部屋の中に入ってきた。
「おまえはまた、そんなくつろいだ恰好で! 歯向かう者もいないような闘いに加わりたくない気持ちはわかるが、皆の手前、せめて鎖帷子くらいは着けて……」
半月に及ぶ包囲の末やっと手にした勝利に気を良くしているのか、怠け者の甥を叱咤する伯父の声は弾んでいた。
甥の背中に隠れる恰好になっている白い人影に気付いて、その声が途切れる。
ユーグの伯父シモン・ド・モンフォールは、十字軍司令官という自分の立場を思い出して顔をしかめ、扉の前に控えている従者に扉を閉めるよう合図をした。
シモンは、この気紛れな甥が聖戦の場に女を連れ込んだのだと思い、醜聞が広がるのを避けようとしたのだった。
だが、すぐに彼は、女の方がまだましだったと舌打ちをすることになったのである。
甥の広い肩の向こうにいる子供が、カタリ派完徳者であることを示す白い上着を身に着けていることに気付いたせいで。
「ユーグ! おまえ……!」
子供を庇い寝台の前に立ちはだかる甥を押し退けて、シモンはローマ教会の敵の姿をその目に捉えた。
そして、息を飲んだ。
ややあってから、異端の子供を見詰めたまま、掠れた声で甥に尋ねる。
「これはもしや、レーモン・ロジェの弟――か?」
返事をしないことがユーグの返事だった。
司令官たる伯父の立場からすれば、余人に知られぬうちに闇に葬れと命じるのが本来なのだろうが、伯父がそう言いはしないことが、ユーグにはわかっていた。
シモンに限らず、誰にも言うことはできないだろう。
『天使を殺せ』とは。
ユーグの予想は裏切られなかった。
シモンは攻め方のわからない敵に相対した時のように横に首を振りながら、それでも、最善の解決策を言葉にすることはなかったのである。
代わりに、
「ユーグ。おまえはレーモン・ロジェの苦悩を引き継ぐつもりか?」
とだけ言う。苦味を含んだ声音だった。
シモンは、気まぐれなこの甥の将来を案じたのである。
レーモン・ロジェの死と彼の領民の不幸は、彼の弟のせいだと、シモンは考えていた。
カタリ派に入信した弟、その弟の信仰と仲間を守るために、レーモン・ロジェは自らを滅ぼしていったのだ、と。
でなければ、勇猛な騎士、賢明な領主として名高かったレーモン・ロジェの末路が、シモンには信じ難かったのである。
「まさか。俺にはその趣味はない」
「太刀打ちできるか。おまえの若さで、あの美しさに」
「……」
自信を持って否定できない自分に、ユーグは戸惑いを覚えた。
そんな甥をユーグを見やって、シモンはわざとシュンに聞こえるように声を大きくした。
「我々は明日カルカソンヌに入城する。カルカソンヌを拠点に、ラングドックのカタリ派殲滅を目指すことになる。おまえには奥まった部屋を与えるが、トランカヴェル家の者が生きていることを、他の騎士たちに知られぬように注意しろ。もし知れたら、私は、おまえがイスラムの悪癖に染まって異端の者を慰みものにして辱めているのだと言って、諸公や法王の非難をかわすからな。欧州一の騎士の名声を不名誉な風評で汚したくなかったら自重しろ」
シモンの言葉に、寝台の上に座り込んでいたシュンが、敷き布の上で二つの拳を握りしめる。
カルカソンヌが十字軍の本拠地になるということは、城塞内で抗戦していた者たちが一掃されたということである。
その虐殺の一因であった自分だけが生き残っているという事実に、この哀れな子供は戦慄しているのだ――と、ユーグは思った。
「……欧州一の騎士、か。レーモン・ロジェ・トランカヴェルがもうこの世にいないとなれば、確かにその栄誉は俺のものかもしれないな」
ユーグがそんなことを言ったのは、だから、シュンの内に憎しみを芽吹かせるためだった。
そんな感情を糧にしてでもシュンに生きていてほしいと、彼は願ったのである。
苛烈と老練を併せ持つ戦略家であるシモンは、しかし、甥のそんな心情を見透かしていた。
「……おまえはもう、この子供に取り込まれつつあるようだ…」
それは、半ば、甥の破滅を予感した言葉だったのかもしれない。
入ってきた時の勢いとは打って変わった苦渋を両肩に乗せて部屋を出ていく伯父を、ユーグは少々複雑な気分で見送った。
ユーグは、伯父ほどには、現状を深刻な事態と受け取っていなかったのである。
閉じられた扉から視線を逸らし、振り返ってシュンの表情を見るまでは。






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