第三章 神のいない国






「瞬……! 瞬!」
懐かしい声――生まれる前から知っていたような声――に名を呼ばれ、水底から空を目指して浮かびあがる空気の泡のように、瞬は意識を取り戻した。
重い瞼を開けると、青い瞳の男が気遣わしげに瞬を見詰めている。
「ユーグ……」
瞬の覚醒に気付いて一瞬輝いた氷河の瞳は、その呟きを耳にするや、不機嫌の極致の色に激変した。
「氷河だ!」
「あ、ごめ……」
ベッドの上に上体を起こそうとした瞬の肩を指で押して、氷河が瞬をシーツの上に戻す。
「どっちにしても、もう夜だ。このまま朝まで寝ていろ」
「え……」
氷河に言われて初めて、瞬は、今自分がいる場所がどこで、今自分がいる時間がいつなのかに気付いた。
そこは、一週間前から氷河と瞬が滞在していた、カルカソンヌ新市の丘の上のホテルの一室だった。
淡い緑色の壁は石でも漆喰でもなく不燃性の壁紙、床は大理石ではない代わりに石でもなく、人工の灯りは蝋燭や松明ではなく、アメニティーを追求し尽くされた電力による照明。
密閉性の高い窓と、快適な空調設備、ソファのセットとドレッサー、機能的なライティングデスク――。
ここはカルカソンヌ城塞内の礼拝室でもなければ、トランカヴェル家当主の私室でもない。
そして、窓の外でライトアップされて周囲の闇を白く染めているカルカソンヌ城塞の姿が、今は十三世紀のある日の夕暮れではないことを、瞬に教えてくれた。
「ぼ……僕、どうしてこんなとこにいるの。確か、まだお昼過ぎで、僕、城壁の中で氷河と追いかけっこしてて、それで――」
「急に現れた亡霊にキスされたんだよ!」
「あ……」
それでなくてもムカついていたところに、自分の身に降りかかった不幸・・を思い出した瞬がぱっと頬を染める様を見せられて、氷河の不機嫌は倍増した。
「ったく、いつもの鉄壁の防御はどうしたんだ!」
「そ……そんなこと言ったって……」
つい先程まで身も心も引き裂かれてしまうような悲しみと痛みの中にいたというのに、氷河の焼きもちのせいで、瞬はあっという間に現実に引き戻されてしまった。
氷河は本気で怒っているようで――大切に取っておいた瞬のファーストキスを、よりにもよって自分・・自身にかっさらわれてしまったのだから、それも無理からぬことだが――瞬はベッドに横になったままで、溜め息をつくしかなかったのである。
枕許に立ち下目遣いに瞬を睨みつけている氷河を、上目遣いに見上げて、瞬が恐る恐る、
「怒ってる?」
と、小さな声で尋ねると、
「あたりまえだろう!」
と、即座に、雷鳴のような氷河の怒声が降ってきた。
これは逆らわない方が無難と考えて、瞬は素直に謝ることにした。
「ごめんなさい……」
あの事故・・が瞬のせいでないことは、氷河とてわかっているのである。
怒りはどうにも収まってくれなかったが、これは誰に向けるべき怒りなのか――と考えると、それはどう考えても自分に向けるしかない怒りだったので――氷河は無理に目付きを和らげた。
瞬がほっとしたように肩から力を抜く。
それからしばらく何を言えばいいのかわからずに、二人は無言でいた。
15、6分も黙り込んでいただろうか。
いくら待っても氷河が話の端緒を開いてくれそうにないことを悟り、瞬は思いきって口を開いた。
「氷河、あれはなに? 僕たちはどこにいたの?」
「ただの夢だ」
氷河の返事はひどく素っ気ないものだったが、氷河もあの“夢”の中にいたことがわかれば、瞬はそれだけでよかった。
(まるで僕がシュン自身みたいだった……)
シュンがどれほどユーグを求めていたか、ユーグのために罪を乗り越える決意をするまで、どれほどシュンが悩み苦しんだか――が、まるで自分のことのように瞬には感じとることができていた。
それでいて、瞬は確かにシュンとは別の人間として、あの場に立ち合っていたのである。
どこまでが夢で、どこまでが自分なのかを見失いそうになりながら、それでも瞬とシュンは、確かに別人だった。
「何か食えるようだったら、ルームサービスを取るが……」
時計を見ると、既に夜の十二時をまわっている。
瞬は氷河を見詰め、左右に首を振った。
「そうか……」
氷河が、少し掠れ気味の声でそう呟き、点頭する。
それから彼は、それまでまっすぐに瞬に向けていた視線を、ふいに横に逸らした。
「なら、このまま朝まで眠ってしまった方がいい。明朝、予定通りここを発とう」
目を逸らしたまま、まるで言い訳でもするように言葉を継ぐ。
氷河らしくないその態度に、瞬は首をかしげたのだが、彼はその言い訳だけを残して、まるで逃げるように瞬の部屋を出ていってしまったのである。
瞬に『おやすみ』の挨拶も言わずに。






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