ヘリオポリスの最奥にある中庭で、小栗鼠相手に戯れていたシュンの視界の端に、何かきらめくものが映った。
シュンが視線を巡らせると、中庭をみおろす神殿のバルコニーに、ヘリオスの妹、月神セレネの銀色に輝く髪があるのが見えた。
鳥に姿を変えてか、月の残光に心を乗せてか、たった今、セレネが兄の許を訪れたところらしかった。
セレネの側に、ヘリオスの姿がある。
金色の太陽神と銀色の月神は恐ろしく美しく、シュンは時折り、この二人が恋人同士だったなら、まさに天上界最高の一対だったろうにと考えて、溜め息をつくことがあった。
庭にいるシュンに気付き、セレネが透き通るような笑みを浮かべる。

「シュン、こちらにおいで」
ヘリオスに呼ばれ、シュンは駆け出した。
ヘリオスの許には、それこそ引きも切らずに多くの神々の訪れがあったが、月神セレネは別格の扱いを受けていたし、シュンもセレネをとても好きだった。
線の細い優美な女神は、他の神々のように物珍しげにシュンを見たり、ヘリオスの恋人としてへつらったり、あるいはただの人間と侮ったりすることなく、いつも自然にシュンに優しい眼差しを投げてくれていたのだ。

「本当に生き生きした子。見ているだけで心が弾んでくるわ。お兄様に夢中のようね。何もかもが輝いて見えるもの」
「しかし、どうやら、より深く恋をしているのは私の方らしい」
「それはそうでしょうとも。命の輝いているのがわかるような子ですもの。あのアポロンが横恋慕しているという噂よ」
「あんな愚かな男にもシュンの魅力がわかるというのは解せないな」
シュンの姿のない庭を見ていても仕様がないと思ったのか、ヘリオスが室内に戻るために踵を返す。
セレネも静かにその後に従った。

「シュンをオリュンポスの好き者共から守るためにも、ゼウスとの契約を成立させなければ……。ゼウスが代償として何を望むのかはわかっているのだが……」
兄の言葉に、セレネが目を伏せる。
「ティターン神族の滅亡──ではないの?」
妹の呟きに、ヘリオスは首を左右に振った。
「そうではない。奴はただ、自分と同格かそれ以上のカを持つ神の存在が許せないだけだ。自分より力の弱い神が増えることは、むしろ歓迎することだろう」
「お兄様……!」

セレネが兄の言葉を遮ったのは、シュンが扉の陰に立っているのに気付いたからだった。
部屋まであがってはきたのだが、太陽と月の兄妹神が深刻そうな話をしているのを見て、シュンはヘリオスに声をかけあぐねていたらしい。
不安そうな目をしているシュンに、セレネは優しく微笑いかけた。
「今日も元気そうね、シュン。相変わらず、世界にある すべてのものが珍しくてならない 生まれたての小栗鼠のように、辺りを走りまわっているの?」
「あ……」
見慣れたセレネの微笑に、シュンは緊張を解いた。
「え……と、セレネ様は今日も月の雫のようにお美しいです」
それでも少し戸惑い気味にシュンが言うと、セレネは更に明るく、月が満ちていくような微笑を口許に刻んだ。

「まあ、口がうまくなったこと。おそらく、お兄様が、そんな言葉を毎日あなたに囁いているのね」
「え……」
思わぬ切り返しに、シュンが頬を染める。
「図星のようね」
女神にからかわれ、シュンはますます頬を上気させた。
「セレネ。あまりシュンをからかわないでくれ。シュンはオリュンポスの神々などとは違うんだ」
「オリュンポスに たむろしている神々が、こんな可愛らしい反応を示すものですか。あの者たちに対しては、私の口からは皮肉しか出てこない。神々は私をどんどん醜いものに変えていくわ」

「セレネ様?」
いつものセレネらしからぬ苛立った様子に、シュンはまた不安に襲われた。
セレネが慌てて その白い指を口許に運ぶのと、ヘリオスがシュンをその胸に抱き寄せるのが同時だった。
ヘリオスが、シュンの耳許に低く囁く。
「シュン。私はこれからセレネと共にオリュンポスに行ってくる。明日には戻れると思うのだが、それまでどうする? 久し振りに村に戻って父たちに会うか?」
「……」
ヘリオスに尋ねられ、シュンは瞳を曇らせた。
もうあの村にシュンの居場所はない。
行けば、皆が丁重にシュンをもてなしてくれることはわかっているのだが。

「僕、ここでヘリオスを待っていたい」
シュンがヘリオスの胸で首を横に振る。
ヘリオスは更に強くシュンを抱きしめた。
「──すぐに戻ってくる。永遠におまえを私のものにするために──今夜だけ、一人で眠ってくれ」
シュンにそう囁きながら、ヘリオスは堅い表情で妹神を見詰めた。






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