ヘリオポリスは広大な神殿で、荘厳な主神殿の他に、居住のための建物や東屋、美しい中庭、神殿を取り囲む外庭、果ては小さな林のようなものまで有していた。
その周囲にはまた更なる外庭といえるような深い森があり、速い流れの川などの自然に囲まれている。
ヘリオスが太陽神の神格を放棄してから、周囲の村々から人間が徐々に減っていったため、ヘリオスの所有する広大な領地は、人間に侵されない自然が自然のまま姿を変えることなく保たれていた。
エンデュミオンは、ヘリオポリスに住む者たちはあまり好きになれなかったが、この環境は非常に気に入っていた。
自然、彼はヘリオポリスの神殿の外で過ごすことが多くなり、ヘリオスやシュンに関わるのを避けるように森へ出掛けてばかりいたのである。

そんなある日の午後。
いつものようにヘリオポリスの西側にある森の巨木の根本に腰をおろし午睡をしていたエンデュミオンは、怪我を負った仔鹿が鳴いているような小さな叫び声を聞いた。
その出どころを捜して森の中を歩いているうちに、彼は、森の終わるところで、声の主を見付けることになったのである。

森は、川によって途切れていた。
昨日までの雨のせいで流れの勢いが増し、その急流が土を抉り取って、流れの両岸に エンデュミオンの身長ほどの高さの崖を作り、地形を変化させてしまっていた。
川幅も、平時の倍近くになっている。
その崖に身を乗り出すようにしている少年が、どうやら声の主らしかった。
シュンが、必死に腕をのばし、崖下の何かを掴み取ろうとしていた。
「おい、おまえ。何をしてるんだ」
エンデュミオンが尋ねても、返事は返ってこなかった。
身を乗り出しているシュンの傍らに立って、シュンが腕をのばしているその先を、エンデュミオンは視線で辿ってみたのである。

急流に抉り取られた崖の土の壁から木の根が露呈していた。
その根の先に、何か茶色の紐のついた小さな袋のようなものが引っかかっている。
木の根も、その根に絡まっている袋も、川の流れに揉まれながら、かろうじて流れに呑み込まれずにいる様子だった。
どうやら先程 微かに聞こえてきた叫び声は、その袋を手から 取り落とした時のシュンのものだったらしい。
「おい、危ないぞ」
エンデュミオンが声をかけた途端、シュンの身体が崖下に落ちそうになる。
エンデュミオンは慌てて、その身体を抱きとめた。
「無茶をするんじゃない。この濁流に飛び込む気か」
たしなめるようにエンデュミオンは言ったのだが、どうやら彼のしたことは、シュンにとっては余計な手出しだったらしい。
助けてもらった礼も言わず、シュンは、エンデュミオンの腕を振りほどこうとした。

「放せっ! あれは大事なものなんだっ!」
なおも腕をのばそうとするシュンを、エンデュミオンは、崖の縁から力づくで引き離した。
「どれほど大事なものなのかは知らんが、おまえ自身の身体より大事なものじゃないだろう。諦めるんだな」
エンデュミオンの言葉に、シュンは眉をつりあげ、彼を睨みつけた。
「あれは母さんが僕に作ってくれた護り石の入っている袋なんだ! たった一つだけ残ってる母さんの手の触れたものなんだ! 死にたくても死ねない僕の命や身体なんかより、ずっとずっと大事なものなんだからっ!」

「……」
激昂し地面に爪を立てるシュンの訴えに、エシデュミオンが一瞬息を呑む。
無言のままシュンの顔を見おろしていたエンデュミオンは、やがて口許だけで微笑し、立ちあがった。
「待ってろ」
エンデュミオンはためらう様子もなく、そして、シュンが止める間もなく、濁流の中に飛び込んだ。
大きな岩でさえ押し流すほどの激流である。
シュンは驚いて、流れの中にエンデュミオンの姿を求め、崖の縁にいざり寄った。
土砂を含み濁った流れの中で、エンデュミオンが袋の紐の絡んでいる木の根を命綱代わりに右手で握りしめている。
もう一方の手で小さな袋を掴みあげると、エンデュミオンはちょうどそこに流れてきた大きな岩を足場に利用して、実に器用に崖の上に飛びあがった。

「あ……」
ほんの数瞬で、エンデュミオンは それだけのことをしてのけた。
シュンが信じられないものを見るような目で、ずぶ濡れのエンデュミオンを見あげ、見詰める。
傷付いて血の滲んでいるエンデュミオンの手脚や、泥水を滴らせている彼の衣の裾に、シュンは呆然としていた。
護り袋をその手に握らされて初めて、シュンは やっと我にかえることができたのである。

「ご……ごめんなさい……ぼ……く、そんなつもりじゃ……あ……ありがとう……」
大切なものを失わずに済んだ安堵のためか、思いがけないエンデュミオンの厚意に驚いたのか、あるいはその両方のためなのか、シュンの瞳に涙が盛りあがってくる。
再び手にした護り袋を両手で抱きしめて、シュンは惜しげもなく幾粒もの涙の雫を、その頬に散らした。
「ふん。俺も、死にたくても死ねない身体だからな」
エンデュミオンが吐き出すように言うと、シュンは再度顔をあげ、エンデュミオンを見詰め、そして、また新しい涙の雫を その頬に散らした。
シュンの涙の雫は、宝石の冷たい輝きではなく、白い花びらの上に宿った朝露のように温かい光を有している。
涙を受けとめる白い指は大理石ではなく、やわらかな優しい線で描かれ、血のかよった温かさを持っている――エンデュミオンの目には そう映った。

(──確かに、綺麗なだけの人形というわけではなさそうだな)
エンデュミオンは今になって、初対面の時のシュンの印象がただの仮面だったらしいことに気付いた。
そしてなぜか、自分はかつてどこかでシュンに会ったことがあるのではないかと、そんな思いを胸中に抱いたのである。
(ただの人形じゃない。そして、俺と同じ苦しみを抱えている……)
神ならぬ身の人間にとって“永遠”がどれほど重いものなのか──その細い肩で永遠という苦しみを耐えるために、あるいは耐えているうちに――無感動な目を装うことをシュンは覚えたのだろうか──?

突然──エンデュミオンは、不可思議な感情をシュンに対して抱いた。
無論、彼はすぐにその感情を振り払ったが。
(……何を考えているんだ、俺は。これはヘリオスの――夜の闇より深い色の目をした、あの男のものだぞ……)
ヘリオスが太陽神としての神格を捨ててまで永遠に縛りつけようとした相手――そんなものに胸をときめかせたところで どうなるものでもない。
エンデュミオンは自嘲めいた笑みを口許に浮かべ、自らをたしなめた。

「あ……の、エンデュ。歩くことはできますか? この森を反対側に抜けたところに、泉があるんです。僕、ご案内しますから、そこで傷口や衣装の砂や泥を洗い流してしまいましょう」
シュンが涙を拭い、感謝の念のこもった瞳でエンデュミオンを見上げてくる。
瞳に涙を残したまま作ったシュンの笑顔は、エンデュミオンの自戒をあっさり打ち砕いてしまうだけの力を持っていた。
濡れた瞳で微笑むシュンはあまりに人間的で、その姿の美しさも、鑑賞するよりは、むしろ抱きしめ愛しむためにあるような種類の美しさで――エンデュミオンは、ヘリオスが太陽神の神格を捨ててまで手に入れようとしたものの価値を、初めて理解できたような気がした。

「エンデュ? あの……歩けないほど痛むのですか?」
いつまで待っても答えを返してくれないエンデュミオンを心配そうに見詰めながら、シュンが尋ねてくる。
その心配が意味のないことだと、シュン自身が誰よりも よく知っているはずなのにと、エンデュミオンは思った。
永遠の若さと命――それは、どんな病も怪我もエンデュミオンとシュンの身体を壊せないということだった。
たとえ怪我をして赤い血を流しても、それは一時の表面的な現象でしかなく、実際、エンデュミオンが負った怪我の傷口は、そのほとんどが既に塞がってしまっていたのだ。

「変な心配をするんだな、おまえは。俺は大丈夫に決まっているだろう」
「……」
エンデュミオンの言葉に、シュンが項垂れる。
顔を伏せたまま、くぐもった声で シュンは呟いた。
「……僕の我儘のために、あんな濁流に飛び込んでくれた人の身を気遣うこともできないなんて、不便ですね、僕たち」
「気遣ってもらうほど大したことをしたわけじゃない。死なないことがわかっているから飛び込めたんだ」

俯いたシュンの肩がひどく つらそうに見えて、エンデュミオンはわざと素っ気なく言った。
シュンが少し顔をあげ、それから、不思議そうな目をエンデュミオンに向けてくる。
「そんなことありません。エンデュは、『俺は死ねない。だから飛び込もう』なんて考えて、あの濁流に飛び込んだわけじゃないでしょう? そんなこと考える余裕があったのなら、エンデュは、『どうせ死なないんだから、自分で飛び込んで取ってこい』って、僕に言うことができたはずです」
「言えるはずないだろう。そんな、子供みたいに細くて、あの川に手を入れただけで折れてしまいそうな腕をしてる奴に」
「細くても非力でも、僕は死なないんです」
「……」
エンデュミオンは、シュンの前で唇を引き結んだ。
何を、シュンに言ってやればいいのかがわからなかったから、ではない。
これ以上シュンと言葉を交わしていると、自分はシュンを悲しませるばかりだと思ったから。
そして、これ以上シュンの言葉を聞いていると、自分はシュンに心惹かれるばかりだと思ったからだった。

既に傷口は塞がり、衣装は乾いていた。
エンデュミオンは、それ以上は何も言わず、シュンの前から立ち去ることにしたのである。
その方が賢明だと――そうした方がいいと、何かがエンデュミオンに警告を発していた。
「あ……エンデュ……ミオン」
あまりに唐突に踵を返したエンデュミオンの名を呼んで、シュンは彼を引き止めようとした。
素知らぬ振りでその場を去ろうとしたエンデュミオンを、的外れなシュンの言葉が追いかけてくる。
「もしかして、僕が気安くエンデュって呼ぶのに、腹を立ててるんですか? それだったら、僕、これからはちゃんとエンデュミオンって呼びますから!」

シュンには、エンデュミオンが自分に素っ気なくする理由が、それ以外に思いつかなかったのだろう。
エンデュミオンは思わず脱力しそうになって、シュンを振り返った。
そんなくだらないことで腹を立てるほど幼くはないのだと言おうとして、だが、彼はそうすることができなかった。
シュンが、ひどく真剣な目をして──今にも泣き出しそうな目をして――エンデュミオンを見あげていることに気付いたから。
いったい なぜそんな目をするのか──と、エンデュミオンが怪訝に思うほどに。

それは、自分のために危険を冒してくれた人間への感謝の気持ちのためだったかもしれないし、その感謝の思いを相手に伝えられないもどかしさのせいだったかもしれない。
だが、そんな感情とは別に、エンデュミオンがシュンの眼の中に見い出したものは、もしかしたら自分を理解してくれるかもしれない相手に出会い、自分の孤独が癒されることがあるかもしれないと希望を抱きかけた人間が、その希望を失うまいとしている、必死の思いだった。
邪険に扱ったら、シュンの“永遠”という苦しみは、更に深いものになってしまうに違いない。
同じ“永遠”を与えられた人間として、エンデュミオンは それ以上シュンに素っ気なくすることができなかった。

「俺もシュンと呼ぶぞ。いいか?」
だからといって、急に愛想のいい顔を作ることもできなかったエンデュミオンが、やはりつっけんどんに言う。
途端にシュンは ぱっと瞳を輝かせた。
「はい! あの、エンデュ。ほんとにありがとう……!」
弾んだ声で頬を薔薇色に染めるシュンは、エンデュミオンほどには、二人の出会いが危険をはらんだものだとは考えていないらしい。
数百年振りの胸弾む思い──それが何に繋がるものなのかも──。






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