一度 近付いてしまうと、遠ざかろうとするのは難しい。 しかも、エンデュミオンはともかく、シュンの方は、エンデュミオンとの間に一定の距離をおく必要を感じていないのである。 シュンは エンデュミオンを、ヘリオスには言えないことを言える友人、ヘリオスには理解できないだろうことを理解してくれる友人――という場所に位置づけたようだった。 そして、そういう友人を得たことに、シュンは救いに似た何かを見い出したような気持ちになっているようだった。 シュンが それにすがろうとしないはずがない。 シュンは、至って無邪気に、エンデュミオンに近付き、親しんできた。 「ヘリオスに会うまでは、僕、毎日果樹園の仕事とか家の中の仕事とかで忙しくって、時間が足りなくって、いつももっと時間があったら、もっともっといろんなことができるのに──って思ってたんだ。でも、おかしいと思わない? 永遠の時間を手に入れたら、僕、したいことも しなきゃならないことも何にもなくなっちゃったんだよ」 「おかしくもなんともないことだ。永遠の時間があるということは、したいことも しなければならないことも、いつでもできるということだ。今 やる必要はなくなるんだ。人間が何事かを成し遂げようとするのは、時間が限られているからだ」 「……そうかもしれない。……ね、ヘリオスにもセレネ様にも言わないでね。僕、時々、神って何のためにいるんだろうって思うんだ」 ヘリオポリスの緑の庭は、すっかりシュンとエンデュミオンのサロンになっていた。 エンデュミオンが庭に出るのを認めると、シュンはすぐにエンデュミオンを追いかけてくる。 そして、彼を話相手にすることを、シュンは自分のが日課にしてしまっていたのである。 「だってね、神は神だっていうだけで神なんでしょ。永遠の命を与えられてて、人間にはない力を持ってて、でも、神同士で争ったり、愛し合ったり、憎み合ったり、やってることは人間と変わらない。神格でさえ、奪ったり譲ったりできて、絶対のものじゃない。だったら神って、なぜ人間と違うものとして この世界に存在するの」 しかし、シュンの持ち出してくる話題は一向にエンデュミオンの懸念していた方向には進まず、それゆえ エンデュミオンは安堵もし、そしてまた少しばかり落胆してもいた。 人間と神々の中で最も美しく、アフロディーテがアドニスよりも愛したネリテスにも勝ると謳われた自分の美貌も、どうやらシュンの視覚にはさほど訴えるものがないらしい――と。 (それほど──それでも、ヘリオスだけを愛しているというわけか……) 半ば感嘆しながら、エンデュミオンは溜め息を洩らした。 「神にも存在意義はあるさ。神というものは、人間が作り出したものだ。神の持つ永遠の命も、人間のそれを超越した力も、神が それらのものを持つことを人間が望んだんだ。人間に崇められなくなり、忘れ去られた神々の中には、存在自体が消えてしまった者もいる。ヘリオスやセレネが神格を他の神に譲ってもなお確固として存在するのは、あの二人が太陽神・月神として崇められてきた時間があまりに長かったせいで、人間が二人を忘れてしまえずにいるからだ。アポロンやアルテミスが幅をきかせるようになった今も、人間たちは、あの二人を最初の太陽神・最初の月神として崇め続けているからな」 金色の木洩れ陽を受け、緑の下草に座り込んでいるシュンは、どこかで会ったことのある懐かしい少女を、エンデュミオンに思い起こさせる。 なぜシュンは自分を愛さないのだろうというエンデュミオンの思いは、日を追うごとに強くなっていった。 「じゃあ……じゃあ、もし人間がヘリオスやセレネ様を忘れてしまったら、ヘリオスたちは消えてしまうの? そうなっても僕は──僕たちは、永遠を生き続けなくちゃならないの?」 「ヘリオスに限ったことじゃない。他のすべての神々もだ。ゼウスでさえ、人間に忘れられてしまったら無になる。だが、まあ、案ずることはない。人間には神が必要なんだ。必要だから神を作ったんだ。自分たちを超越した力があることを信じずには生きていけないのが、人間というもののようだからな」 「……」 そう言いながら、エンデュミオン自身はまるで神など不要な存在だと思っているふうである。 シュンは膝を抱え込み、小首をかしげた。 「エンデュは、あんまりそう思ってないみたいだね」 「人間に必要なのは、神などではなく人間なのだということが、純粋に人間でないものになってからわかった」 「うん……」 永遠の命などというものを与えられた人間は皆、同じようなことを考え、悩むのだろうか。 シュンが思い悩んでいたこと、だが、ヘリオスのために結論を出してしまえずにいたことに、エンデュミオンは次々に容赦のない答えを返してくる。 そして、その答えはすべて、到底ヘリオスには言うことのできないものだった。 「そうなんだ……。僕、ヘリオスも好きだったけど、父さんや兄さんたちも好きだった、どっちか選べって言われたら一生悩み続けるくらい好きだった。ヘリオスは……そんなこと僕に訊いて、僕を悩ませることすらしてくれなかったけど……」 膝頭を額に押しつけると、シュンの長い髪が下草を覆う。 限りある命の人間だったことを忘れるために伸ばし続けた髪──エンデュミオンがはっきり言葉にしてしまった答えを聞いても、振り払うことのできない悩みのように、それは緑の大地を覆っていた。 痛ましさと焦れったさを覚えながら、しかし、エンデュミオンはシュンの姿を無言で見詰めていることしかできなかった。 しばらくしてから顔をあげると、シュンはエンデュミオンを見上げ、尋ねてきた。 「エンデュも、セレネ様のために家族や友だちを諦めたの?」 シュンに そう問われたエンデュミオンは、シュンの前で両の肩をすくめた。 エンデュミオンは永遠の命と引き替えに何を捨てたわけでもなく、また、エンデュミオンが神ではなく“人間”を必要としていたのは、これまでの長い時の間ではなく、今この瞬間だったのだ。 「……いや。俺の父親はエリスの国の王だったんだが、あることでゼウスの怒りを買って、国を滅ぼされてしまったんだ。ゼウスは、父のみならず、国の民の命もすべて根絶やしにしてしまった。俺は──そうだな、いつかゼウスの滅びる時が見たくて、セレネが俺に与えようとした永遠を受け入れたんだ。理不尽な神ゼウスを憎む心があれば、永遠にも耐えられると思い込んでいた。自分の浅はかさに気付くのに、二百年ほどかかったがな。どれほどの憎しみも、永遠という時間には耐えきれず、擦り切れてしまう。セレネの愛だけは、驚くほど変わらないが」 「エンデュ……」 樫の木にもたれ虚空を見詰めているエンデュミオンを、今度はシュンが凝視する。 言葉を見付けられなくて、シュンは瞬きを繰り返すばかりだった。 あの美しいセレネとの恋のために永遠を受け入れたのだろうとばかり思っていたエンデュミオンが、そして、それは確かにそうなのだろうが、それ以上に、父とその国を神に滅ぼされた憎しみにかられて 永遠を選びとったのだということが哀しく思え――しかし、シュンの心のどこかには、なぜか、そんなエンデュミオンを羨む思いがあった。 「おまえは、俺よりはましだろう? おまえはヘリオスに愛され、ヘリオスを愛して、永遠を得たのだろうからな。憎しみでなく愛なら、もしかしたら永遠にも耐えられるかもしれない」 薄く微笑するエンデュミオンに、シュンは左右に首を振った。 そして、きっぱりと言った。 「愛も永遠には耐えきれない! ヘリオスやセレネ様は神だから──もともと永遠を約束された神だから、あの人たちは いつまでも恐いくらい変わらない愛を抱いていられるのかもしれないけど、でも、人間はきっと違う。人間は、人間の心は、愛でも憎しみでも、きっと永遠には耐えられないようにできてるんだ! だって、僕は……」 涙が、シュンの瞳ににじんでくる。 吐き出すように、そして、まるで自分自身を軽蔑するように、シュンは言葉を続けた。 「僕は、限りあるものだけが愛しいもの。死んでいく人間、枯れていく花、消えてしまう朝露、変わってしまう僕の心が──哀しくて、つらくて、愛しくて、忘れられないもの。……終わりがないってことが恐い。僕、永遠にヘリオスを愛していられると思う? 僕、恐いよ。自分が恐くて――恐くて恐くて、どうすればいいのかわからないよ。僕の心は“永遠”に耐えられそうにないのに、永遠を与えられた身体だけが、僕の心を嘲笑うみたいに歓んでヘリオスを受け入れるんだ。ヘリオスはきっと僕の心の永遠を信じて、僕に永遠の時間をくれたんだろうに、僕の心は弱すぎて――弱すぎて、もう死にかけている……」 そこまでシュンを苦しませるヘリオスの愛が真実のものなのか──エンデュミオンは シュンに そう問いたかった。 が、彼にはそうすることはできなかった。 そんなことは、おそらくシュンも考えたことがあるに違いない。 何はともあれ、シュンには、考え、疑う時間だけは、これまでいくらでもあったのだから。 「死にかけちゃいないだろう。死にかけた心が、そんなに苦しめるものか。死にかけた心では、そんなに泣くこともできない。生きようとしているから、人は もがきもすれば、傷付きもするんだ」 「……」 エンデュミオンの言葉に、シュンは瞳を見開いた。 否、それは、エンデュミオンの言葉のせいではなく、シュン自身が今の自分を驚き訝ったためだったかもしれない。 確かに、今この瞬間、シュンの心は生きていた。 苦しみ、もがき、涙さえ生んで 瞳を熱くしていた。 そんなことは、この数百年間、絶えてなかったことだったというのに。 エンデュミオンに会うまで、シュンは、自分の心は すべてを諦め死にかけていると思っていた。 だが、今、シュンの心は動いていた。 はっきりとした感情を感じることも、今のシュンにはできていた。 (……なんで、今はこうなんだろ。なんで、ヘリオスと一緒の時は、僕の心は動かなくなるんだろ。なんで、エンデュには言えることが、ヘリオスには言えないんだろう……) シュンは唇をきつく噛み、拳を握りしめた。 もし エンデュミオンにその問いを問えば、彼は残酷な答えをシュンに返してくれるのだろうか。 『おまえは、自分と対等のものとしてヘリオスを愛したことはないんだ』と。 『そして、おそらく、ヘリオスもそうだったんだ』と。 そんな答えを聞かされたくなくて、シュンはエンデュミオンから視線を逸らした。 諦念ならともかくも、絶望と共にこれからの永遠を生きていく勇気は、シュンには到底持ち得ないものだったから。 |