シュンはそれからしばらく、エンデュミオンを避けていた。 これまで、エンデュミオンとシュンのやりとりは、シュンが一方的にエンデュミオンを追いかけていくことで成り立っていたので、シュンがエンデュミオンを避け始めると、広いヘリオポリスの中で二人が出会うことはなくなってしまう。 エンデュミオンと言葉を交わせない日々は シュンには つらいものだったが、それ以上に つらい事実を認めずに済むように、シュンはそうすることしかできなかったのである。 シュンとヘリオスの住む主神殿にやってきたエンデュミオンの姿を見た時、だから、シュンは彼の前から逃げ出そうとした。 だが、エンデュミオンから逃げようとするシュンの心より、シュンを捕まえようとするエンデュミオンの心の方が強かったに違いない。 エンデュミオンはシュンを逃がしてしまうようなことはしなかった。 顔を背けるシュンの手首を掴み、彼は低い声で尋ねた。 「なぜ逃げる。なぜ 俺を避けるんだ」 「に……逃げてなんかいない」 目を伏せたまま、シュンは必死にエンデュミオンの手を振りほどこうとしても もがいた。 だが、エンデュミオンは逆にシュンのもう一方の手も捕まえると、シュンの手を掴みあげている力の強さはそのままに、少し苦笑しながら言った。 「おまえ、嘘をつくなら、行動と矛盾していない嘘をつけ」 「矛盾なんかしてない。い……痛いから放してほしいだけだもの……!」 なおも もがき続けるシュンに、だが エンデュミオンは容赦しなかった。 「放したら逃げるんだろう? ここでおまえに負けて、この手を放してしまったら、俺はただの阿呆だ。さ、言え。雛鳥が親鳥の後をついてまわるように、毎日俺を追いかけてばかりいたくせに、おまえはどうして急に成鳥になってしまったんだ?」 「……」 エンデュミオンの言葉は、シュンに期待を抱かせるものだった。 エンデュミオンは本当に あの時あの泉の側にはいなくて、ヘリオスと自分の交わりを見てはいなかったのではないかと。 だから、自分に避けられる理由がわからなくて、こうして問い詰めにきたのではないか――と。 シュンは恐る恐る顔をあげ、エンデュミオンの瞳を覗き込んだ。 覗き込んで――だが シュンにはエンデュミオンの瞳の色を読み取ることはできなかったのである。 彼が すべてを知っていてシュンを軽蔑しているのか、知っていて感情を動かされずにいるのか、あるいは本当に何も知らずにいるのか──が、シュンにはわからなかった。 ただシュンは、今更隠すまでもないこと――おそらくエンデュミオンも察してはいただろうこと──を彼に知られるのをこれほどまでに自分が恐れる訳だけは、おぼろげにわかったような気がしたのである。 自分が恐れているのは、あの光景を見たエンデュミオンに軽蔑されることではなく、エンデュミオンがそれを何とも思わないことの方なのだと。 「……シュン。本当は、訳なんかどうでもいいんだ。これからおまえが俺を避けるのをやめてくれさえすれば。おまえと一緒に時間を過ごすことが、俺にとってどれほどの救いなのかを考えてくれ。おまえと同じ時間を共有できない毎日が、どれほど俺に虚無感を覚えさせるかを察してくれ」 眼差しと同じに抑揚のない声だったが、エンデュミオンは押し殺そうとして押し殺せない何かに突き動かされて、そう訴えているように、シュンには見えた。 それがいったい何なのか、言葉で言い表わすことはシュンにもできなかったが、その感情はシュンも知っているものだった。 エンデュミオンと同じ“何か”がシュンの中にも確かに存在していて、その“何か”が、エンデュミオンに会いたいと、毎日シュンを責め苛んでいたから。 「エンデュ……」 シュンは、その“何か”に抗い続けることはできなかった。 『訳などどうでもいい』と言うからには、エンデュミオンは本当にその訳を知らないのだろう――シュンはそう思ってしまうことにした。 たとえエンデュミオンが見て見ぬ振りをしているのだとしても──考えてみれば、それはエンデュミオンにはどうでもいいことなのである。 エンデュミオンと自分は恋人同士なわけではないし、自分はエンデュミオンを裏切ったわけでも、傷付けたわけでもないのだから。 思いきって顔をあげ、シュンはエンデュミオンの瞳をもう一度覗き込んだ。 思いがけず優しいエンデュミオンの眼差しに安堵して、シュンは彼の名を呼ぼうとした。 呼んで、エンデュミオンさえ迷惑でないのなら、今日からまた以前のようにエンデュミオンの後を追いかけることにする──と、言おうとした。 が、シュンが声を発しようとしたその瞬間に、それまで優しげだったエンデュミオンの目が突然険しくなり、そのためにシュンは、彼に言おうとした言葉を言うことができなくなってしまったのである。 原因はすぐわかった。 ヘリオスの姿が、扉の前に――エンデュミオンの視線の先に、あった。 「シュンを放してもらおうか。意外に懲りない男だな、君は。それとも愚鈍なのか? 私の意図がわからなかったわけでもないだろうに」 「シュンの意思でなく、貴様の企みだとわかっているから、諦める気にならないんだ。シュンを傷付けるようなことまでして」 「もっと大きな苦しみから、シュンを救うためだ」 「俺がシュンを苦しめることがあると思うのか? 今以上、貴様以上に?」 エンデュミオンもヘリオスも、感情を無理に押し殺そうとしているのがわかる。 二人が何のことを話しているのかを察して、シュンはエンデュミオンに掴みとられていた手を、滑らせるように外した。 そして、そのままその場で俯いた。 やはり、あの泉の側にエンデュミオンはいたのだ。 疑惑だったものが確信に変わり、その確信にシュンは打ちのめされた。 シュンのその様子を見て、冷たく冴えていたエンデュミオンの声音が、気遣わしげなものに変わる。 「す……まない、シュン。俺は──何も知らない振りをしていられるつもりでいたのに……」 「……」 エンデュミオンが悪いのではないということはわかっていたのだが、だからといってシュンには、何事もなかったかのように 彼の謝罪を笑い飛ばしてしまうこともできなかった。 (じゃあ、やっぱり僕は、エンデュに思い切り軽蔑されちゃったんだ。口では 永遠が つらいなんて言いながら、あんなふうな僕を見て、エンデュは呆れちゃったんだ。そして、そんなことはエンデュにとってはどうでもいいことだから、エンデュは見て見ぬ振りをしようとしたんだ……) 不安は、どうやら現実のものとなってしまったらしい。 シュンは、きつく唇を噛みしめた。 なぜか、ヘリオスの胸に逃げ込むことも、シュンにはできなかった。 「シュン……」 シュンの肩に、エンデュミオンが手をのばしてくる。 エンデュミオンに触れられることを恐れて、シュンは身を引いた。 エンデュミオンが、彼らしくもなく気後れしたような素振りを見せてから、ためらいがちに口を開く。 「シュン……俺は、おまえの考えているようなことは考えなかった。俺が考えたのは――おまえを抱いている男がヘリオなどではなく、この俺だったらということだけだった。軽蔑してもいいぞ。おまえに会えなかったこの数日、俺は、そのことしか考えられなかった」 「エ……ンデュ……?」 驚いてシュンが顔をあげると、そこには、少しだけ頬を上気させ、だが険しい目をしたエンデュミオンの不思議な表情があった。 彼はしかし、シュンと視線を合わせるのを避けるように、すぐにシュンから視線を逸らし、憎々しげにヘリオスを睨みつけた。 「貴様の言う通り、シュンを苦しめるのはわかっているんだ。貴様があんなことを企みさえしなければ、もしかしたら俺は自分を抑えていられたかもしれない。こんなことを言って、シュンを困らせずに済んだかもしれない。シュンが――シュンが人間の心を捨て去ってしまってくれていたなら、俺は こんなにシュンに惹かれることもなかったろうに……」 きつく拳を握りしめ、意識してシュンを見ないようにし、だが既にヘリオスをさえ見ていないエンデュミオンと、そんなエンデュミオンを無言で睨んでいるへリオスの間で、シュンは戸惑っていた。 そんなことがあるはずがないと、シュンは思っていた。 エンデュミオンの側にはセレネが――あの美しいセレネが、自らの神格を放棄してまでエンデュミオンに永遠を与えたセレネがいる。 ヘリオスが──シュンのために すべてを捨て去ったヘリオスが、いつも自分の側にいるように、エンデュミオンの側にはセレネがいるのだ。 自分とエンデュミオンに、ヘリオスとセレネを裏切ることができるわけがない。 これは何かの冗談だと、でなければ、ヘリオスの企みに怒りを覚えたエンデュミオンが、その怒りに任せて口にした戯れだと、シュンは思おうとした。 そんなシュンの気持ちも知らぬげに、あるいは見透かしたように、ヘリオスが言う。 「私があのようなことをしなくても、君は結局自分を抑えることなどできなかっただろう。私はシュンがどれほど美しいか、どれほど人の心を惹きつけるかを、よく知っている。まして、シュンは、君を理解してやれる立場にいる唯一人の人間だ。君は既にシュンを求めていたし、それに気付いたからこそ、私はあんなことを企んだのだ」 「残念だったな。貴様のしたことは、俺の中にあった種火を大きな炎に変えてしまった」 「君のその傲慢な性格を考慮していなかった。あのアポロンでさえ、私の腕の中のシュンを見て引き下がったというのに、君は君の手の中で、もっとシュンを美しくできると思いあがったわけだ」 「傲慢さで貴様が俺に劣るとは思えないな」 「そういう見方もあるわけか」 険悪この上ない二人のやりとりを、どうすれば止めさせることができるのか、シュンにはわからなかった。 否、それ以前に、シュンには二人の話がよく理解できなかったのである。 エンデュミオンがセレネから他の誰かに心を移すことなど、シュンには到底信じられないことだったから。 |