その日のうちに、アルヴィーゼは、セラフィーノと共にヴェネツィアに向け旅立った。
トルコ、セルビアを陸路で横断し、ラグーザからはアドリア海を船でヴェネツィアに向かう──というのが、アルヴィーゼの選んだ経路だった。
自分とセラフィーノの二人連れが人目を引くことはわかっていたので、アルヴィーゼは自分の髪を黒く染め、セラフィーノの雪のように白い肌を 消し炭でわざと黒ずませた。
目立たぬようみすぼらしい服をまとい、それでも心配だったアルヴィーゼは、セラフィーノを薄汚れたマントで覆い隠すことまでした。
ありふれた馬を手に入れ、金や宝石を古ぼけた荷袋に隠し、二人の旅は始まったのだった。

ところが、コンスタンティノープル市内を囲む城壁を出るやいなや、アルヴィーゼたちは早速数人のトルコ兵たちに囲まれることになってしまったのである。
兵たちは、どう見ても軍列を離れた兵卒ではなく、スルタン子飼いのイエニチェリ軍団の精鋭たちのようだった。
どうやら、コンスタンティノープル市内もしくは皇宮に、トルコと通じている裏切者が入り込んでいたものらしい。
オルセオロ邸を出る者にはすべて、監視がつくようになっていたのだろう。
はっきりと、トルコ兵たちは、アルヴィーゼとセラフィーノを狙っていた。

(こんなことでは、元首補佐官とオリヴェロット殿の方が思いやられるな……)
呑気にそんなことを考えてから、アルヴィーゼは、今はそんなことを考えている場合ではないことを思い出した。
自分一人の身を守るだけなら簡単だが、今 アルヴィーゼは、滅多に自邸を出たことのない、文字通り深窓育ちの貴族ノーヴィレの令息を預かっているのである。
トルコ兵の半月刀を長剣で払いながら、アルヴィーゼはセラフィーノを乗せた馬のいななきのする方に、視線を巡らせた。
セラフィーノの馬に取りついているトルコ兵は、どういうわけか、半月刀を投げ捨てて、素手でセラフィーノを捕らえようとしていた。
馬の手網を奪われ、セラフィーノは立往生してしまっている。

「セラフィーノ!」
自身に群がるトルコ兵たちを切り捨てながら、慌ててアルヴィーゼがセラフィーノの側に引き返そうと手網を引いた時、セラフィーノを馬から引きずり降ろそうとしていた3人のトルコ兵が、次々にセラフィーノの馬の足元にうずくまるようにして倒れていった。
そのうちの一人が、苦しまぎれにセラフィーノのマントを掴み、崩れ落ちる。
セラフィーノは馬上から腰を屈め、そのマントを己が手に取り返した。
その際、アルヴィーゼは思いがけないものを見てしまったのである。
つかに宝石の散りばめられた、刃渡りが人の中指ほどの長さしかない細剣が、セラフィーノの手に握られているのを。

少々意外な気持ちで、アルヴィーゼは残りの5人を片付けて、セラフィーノの脇に馬を横付けた。
「深窓育ちの御曹司が、そんなものの使い方を知っているとは驚きだな」
感嘆してそう言ったアルヴィーゼから、セラフィーノがさりげなく視線を逸らす。
こころもち俯いて、セラフィーノは小さく呟いた。
「僕には必要でしたので、兄が教えてくれました」
「必要? 君にか?」
この美しい子供に危害を加えることを考える人間の存在など、アルヴィーゼには到底信じられなかった。

「あ……いえ……」
どこか思い詰めたようなセラフィーノの横顔に陰が射す。
その翳りによって、アルヴィーゼは、どうやら自分が触れてはならないことに触れてしまったらしいことに気付かされた。
「──そうだな。考えてみれば当然のことか。軍事、内政、外交、経済――何もかもに精通していなければ、オルセオロ家の子息なんて仕事は務まらないわけだ。海賊も……撃退しなければならないんだったな」
「あ……」

アルヴィーゼがそれとなく話の方向を逸らすと、セラフィーノは 馬上で ほっと息を洩らした。
そうしてから、白い真珠は 少しばかり哀しげな微笑をアルヴィーゼに向けてきた。
「すみません。ありがとうございます。あなたは お綺麗でお強いだけでなく、優しいんですね」
(優しい……? この俺がか?)
アルヴィーゼは初めて受けたその評価に、少なからず驚き、そして、それは誤解だとセラフィーノに告げようとした。
のだが──。
かつての大帝国、今となってはただ一つの故国の落日を前に、自分は、投げやりになり、軍人としての緊張感を失ってしまっているのかもしれない──と、アルヴィーゼは思ったのである。
それが、傍目には優しい男に映ってしまっているのかもしれない──と。

帝王としては失格でも、一個の人間としては最上級の部類に属し、主君として尊敬してきた皇帝コンスタンティヌス11世を最期まで護りぬき、そして、帝国と共に滅ぶのが、自分の進む道だと決意して、アルヴィーゼは、ここ数ヶ月間トルコ軍との戦いを戦ってきた。
その最後の時に、アルヴィーゼは忠誠を誓っていた皇帝から、ヴェネツィア行きを命じられた。
それは、つまり、皇帝にとってアルヴィーゼが、“共に滅ぶ価値も必要もない臣下”だと宣言されてしまったも同然のことだったのである。
少なくとも、行政官ではなく軍人であるアルヴィーゼは、そう考えないわけにはいかなかった。
無論、コンスタンティヌス帝の臣下であり軍人であるアルヴィーゼが、皇帝の命に背くことなどできようはずもなかったが、アルヴィーゼが皇帝の命令に失望し、そして、生きる目的と死にゆく目的を失ったことだけは確かな事実だった。
それらのものと同時に、アルヴィーゼは、軍務を遂行するために身につけていた冷徹の仮面をも、どこかに失くしてしまったのかもしれなかった。

(……そうだな。気力も覇気も、俺は失ってしまっているんだ。武人としての自分に失望し、絶望もしている。陛下の最後のご命令と、この子を守らなければならないという義務感だけが、今の俺の生きるよすがというわけだ……)
黙り込んでしまったアルヴィーゼに、セラフィーノが低い声で話しかけてくる。
「あの……急ぎませんか? 僕の細剣の眠り薬は、しばらくすると切れてしまうんです」
それでも、どうやら オルセオロ家の真珠は軍人ではなく政治家の息子らしく、人を殺めることまではせずにいたいらしい。
セラフィーノに促され、アルヴィーゼは馬の手綱を引き締めた。






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