ラグーザまでの長い道程を、セラフィーノは懸命にアルヴィーゼについてきた。 異教徒たちが営む小さな村々を繋ぐ道なき道。 深い森や乾いた砂漠。 軍人であるアルヴィーゼは野営にも慣れていたが、ヴェネツィアの裕福な貴族の子息には ほとんど針の上で眠っているように思えるだろう野宿や、安宿の堅い寝台。 喉の渇きに苛まれながらの炎天下の強行軍にも、セラフィーノは愚痴一つ言わなかった。 「僕、本当はもっと我儘なんですよ。暑いのはいや、寒いのもいや、疲れた、休みたい、父上に会いたい、兄上に会いたい……って、喚きたてたいんです。僕がそうしないのは、父上や兄上はもっと大変なんだろうって思うからだし、それより何より、そんなことを言って駄々をこねたら、思いっきり あなたに軽蔑されてしまいそうだからです」 「軽蔑はしない。無視するだけだ」 「その二つは同義語です」 どうやら オルセオロ家の真珠の双眸の輝きは、ただ天と自然とが与えた美によってのみ輝いているのではないらしい。 歳に似合わぬ深い思慮を、この真珠は備えているようだった。 (まったく、どういうつもりで神はこんな人間を作ったんだろうな。世に二人といないだろう清冽な容姿と、恵まれた環境。聡明さと、容姿に合った心と強さ。無事にヴェネツィアに着けば、約束された未来が待っている。確かに、愛されすぎるほど神に愛されている人間だ、この綺麗な真珠は……) 神は、この危険な旅行きの最中にすら、セラフィーノヘの愛を示すばかりだった。 コンスタンティノープルから逃れるヴェネツィア・ジェノヴァの商人たちやビザンティン帝国の要職にあった者たちを捕らえるために配置されているトルコ兵たちは、まるでアルヴィーゼとセラフィーノだけは目に入っていないかのように、見当違いな方向にばかり捜索の手をのばしていた。 無論、国外への脱出を図る者の大部分は海路を採っただろうし、船団を拿捕するためには多くの兵を割かねばならず、陸路の兵配備が手薄になるのは当然のことだったのだが。 しかし、兵の数を論ずるなら、スルタン・マホメット2世は、コンスタンティノープル全人口の数倍の兵を動かすこともできるのである。 この幸運の連続は、奇跡としか言いようのないものだった。 「さすがに皇帝陛下がお目をかけていらした親衛隊長さんだけあって、英断でしたね、この脱出経路を採ったのは。こんなに陸路の監視が手薄だなんて、僕、思ってもいませんでした。僕、コンスタンティノープルを出る時に、覚悟を決めていたんですよ。綺麗事でトルコの追手から逃げきれるはずはない──って。2、30人は、トルコ兵を殺すことになるだろう──って」 長い旅を二人きりで続けているうちに、アルヴィーゼの不愛想にも慣れてしまったのか、セラフィーノはすっかり彼に懐いてしまっていた。 「敵を殺めずに済む分、おまえ自身の苦しみが割り増しされているだろう。海路を採っていれば、もう1ヶ月も前にヴェネツィアに着いているはずだ」 「ヴェネツィアに帰っても、邸の奥に閉じこもっていなければならないだけだもの。父上や兄上の無事さえ確かめられたなら、僕、ずっとこうしてアルヴィーゼと旅を続けていたいくらい。アルヴィーゼと一緒だったら、身の危険と安全を慮る必要もないですしね」 何か妙にセラフィーノが自分を持ちあげてばかりいると、アルヴィーゼは最初 思っていた。 そして、やがて、それは、セラフィーノが必死に同行人の気を引きたたせようとしているからなのだということに、気付いた。 落胆も失望も不安もすべて、無表情の裏に隠していたつもりだったアルヴィーゼは、己れの未熟さに舌打ちをしたのである。 なるほど、特定の家への権力集中を嫌うヴェネツィア共和国で 隠然たる権力を維持し続けるオルセオロ家の一員だけある。 ほんの14歳かそこいらで、セラフィーノの人間観察の目は至極確かなもののようだった。 コンスタンティヌス帝に、オルセオロ家の人間のように優れた政治感覚と外交手腕、そして決断力と実行力があったなら、ビザンティン帝国は滅びの時を迎えずに済んだのかもしれない。 温情に溢れ、寛大で名誉を尊ぶコンスタンティヌス11世は、臣下には慕われたが、崩れかけた帝国を異教徒の手から守り抜き、立て直すだけの才能には恵まれていなかった。 「僕、皇帝陛下のこと、父上と兄上の次に好きでしたよ。陛下はとてもお優しくて、理性の勝った 本当の紳士でしたから」 トルコとセルビアの国境にかかる頃になって、セラフィーノは戦法を変えてきた。 いくら元気づけようとしても、いっかな効果の見えてこない持ちあげ戦法に、真珠は見切りをつけたらしかった。 「お会いしたことがあったのか、陛下に」 親衛隊長の立ち合いなしに、皇帝が余人に──しかも外国人に、謁見を許すはずがない。 でなくても、これほどの美形が皇宮を訪問したとなれば、噂にならないはずがなかった。 トルコほどではないにしろ、キリスト教国たるビザンティン帝国の皇宮にも 同性愛の嗜好者は数多くいたし、その方面に興味のない者も、セラフィーノを一目見たら、他の女を美しいと思うことは金輪際できなくなるに決まっているのだ。 だが、アルヴィーゼはそんな情報を得たことは、一度もなかった。 「陛下のたってのご希望で一度だけ。僕は邸から動けなかったので、陛下の方がお忍びで ご来駕くださったんです。ばれたら アルヴィーゼに叱られるって、陛下はおっしゃってましたよ」 「馬鹿なことを……」 ほとんど舌打ちになりかけていたアルヴィーゼの呟きは、皇宮から親衛隊長に無断で抜け出すなどということをしでかした皇帝に対するものであり、そして、セラフィーノに対するものでもあった。 コンスタンティヌス帝はキリスト教徒であり、また、道理をわきまえ、己れの地位と権力に驕ったりするような皇帝ではないから、セラフィーノとの対面も無事に済んだのであろうが、これがマホメット2世あたりだったら、セラフィーノは即座に家族から引き離され、スルタンの寝室に略奪されてしまっていたに決まっている。 スルタン・マホメット2世のように己れの権力の絶対を信じている支配者は、セラフィーノの美しさを怖れることもなく、その美しさを征服することにこそ 喜びを覚えるに違いないのだ。 「お優しかったですよ、とても。それで、アルヴィーゼのこと見慣れているから、僕を見ても冷静でいられるんだ──って おっしゃって、そして、アルヴィーゼのことを褒めたり けなしたりなさいました。自分はアルヴィーゼの父親代わりだから、何を言ってもいいんだ──って おっしゃって」 アルヴィーゼ自身、自分を醜い男だと思ったことはなかったが、それにしても、この真珠と自分とでは、美しさの次元も程度も違いすぎるほどに違うと、彼は思った。 そして、皇帝はまだ生きているのだろうかと考え、不吉な予感を振り払うために、彼は首を横に振った。 |