「アルヴィーゼ……。どうすれば元気になってくれますか……」
ラグーザの町を目の前にした時だった。
ここまで来れば、もうヴェネツィア領である。
危険はほぼ回避し得たと考えていい。
アルヴィーゼにその事実を知らされたセラフィーノは、だが、一向に喜ぶ気配を見せず、逆に 悲しげな目をしてアルヴィーゼを見詰め、尋ねてきた。
「あなたはとても美しくて、強くて、英邁で、しかも まだ若くて、たとえ故国を失っても、仕える主君を失っても、未来と可能性はあなた自身の手の中にあるのに、どうして……どうして、そんなふうに、まるで この世界に自分一人だけで生きているみたいな目をしてらっしゃるんですか」

「……」
どうあっても アルヴィーゼのまとっている無表情の奥を見透かしてしまうセラフィーノを、その瞳を、アルヴィーゼはじっと見詰め返した。
そして、ふと思ったのである。
もし、この美しい真珠が自分を愛してくれたなら、自分に未来があることも、可能性があることも、再び信じることができるようになるかもしれない──と。
思った途端にアルヴィーゼは、行動に出ていた。
求めるものに、腕をのばす。
並んで立つ二頭の馬の背の上で、アルヴィーゼはセラフィーノを抱きしめ、唇を重ねた。

この二ヶ月に及ぶ旅で、既にアルヴィーゼにはわかっていた。
もし一年前なら――トルコがコンスタンティノープルに攻めてくる前、自分が帝国内に確かな居場所を持ち、前途も輝いていると信じていられたあの頃なら──この真珠を手に入れるために、自分は自分の持っている すべてを投げ捨てていただろうことを。
故国も、主君も、地位も、名誉も、財も、友人も、部下も、何もかもを、である。
もし自分が一国の王であったなら、その国を投げうってでも セラフィーノを手に入れようとしていたに違いない。
アルヴィーゼは、それだけの価値がセラフィーノにはあると思っていたし、そう思うのは自分だけではないだろうと確信してもいた。

だが、今のアルヴィーゼには捨てるものが何もなかった。
あるのは、失ってしまったものだけだった。
(いや……だが、もし俺に捨てるものが何かあって、多少なりと良識が残っていたなら、こんなことはできなかったのかもしれない。この尋常でない美しさを恐れるだけの分別を、今の俺は失ってしまっているんだ……)
アルヴィーゼに息もできないほど強く抱き締められているせいではなく――おそらく 何か別の理由のために、セラフィーノはアルヴィーゼの腕の中で身体を堅くしていた。
この美しい真珠を汚そうとする不埒な者など、これまで現れたことはなかったのだろうし、もし現れたとしても、そんな不届き者は あの父と兄に打ちのめされていたに違いない。

アルヴィーゼが、セラフィーノの やわらかい唇を名残り惜しげに解放すると、そこには、驚いたような、困ったような、怯えたような、不思議な色をしたセラフィーノの瞳があった。
「アルヴィ……ゼ?」
困惑したような声で名を呼ばれ、だが、アルヴィーゼはそれには答えなかった。
「ヴェネツィア行きの船をつかまえに行く。いい風が吹けば、明日にも補佐官殿や兄上に会えるだろう」
答える代わりに馬の手綱を引きながら、セラフィーノに背を向けて、意識して冷淡に、アルヴィーゼは 彼の真珠に告げた。
セラフィーノに愛を求め、その代償としてセラフィーノに捧げられる どんなものも持っていない今の自分を、アルヴィーゼは 苦く自覚していた。






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