コンスタンティノープルでの戦闘をよそに、ヴェネツィア領国内は平和そのものだった。
コンスタンティノープルに邸を残し、本国に引きあげてきた商人たちの船でごったがえしているアドリア海を、アルヴィーゼは、セラフィーノの身分と美しさを隠しながら、ヴェネツィアの町に向かった。
そして、ラグーザの町で予告した通り、ラグーザの港を出た翌日には、セラフィーノは、無事にコンスタンティノープル脱出を果たした父と兄に再会することができたのである。
息子との再会が叶ったオルセオロ補佐官の喜びは、一通りのものではなかった。
そして、アルヴィーゼはセラフィーノを元首補佐官の手に引き渡す際、コンスタンティノープルの陥落と コンスタンティヌス11世の壮絶な死を知らされたのである。

「そうですか……」
察していたことではあったので、アルヴィーゼは さほど驚きはしなかった。
不安が虚無感に変わっただけ、懸念が無力感に変わっただけだった。
コンスタンティノープルの邸同様、外容に反して豪奢な調度に囲まれたオルセオロ元首補佐官の執務室で、アルヴィーゼは、青い顔をして頷いた。
これで本当に、アルヴィーゼは帰る場所を失ってしまったことになる。
旅装も解かずにいたセラフィーノが、そんなアルヴィーゼを、不安げに、あの海緑色の瞳で見詰めてきた。

「アルヴィーゼ。しばらくここにいてくださるでしょう? 旅の間、僕は僕の身の安全だけを考えていればよかったけど、アルヴィーゼは僕にまで気を遣ってくださってたんですから、僕の倍も疲れてらっしゃるはずです。アルヴィーゼは、休息をとらなきゃなりません」
ラグーザの町を見下ろす丘での出来事を、この真珠は いったいどう受けとめたのかと訝りながら、アルヴィーゼはセラフィーノの気遣いに戸惑うことになったのである。
突然、何の前触れも 断わりもなく、挨拶とは言い難い深い口付けを迫った男に、なぜセラフィーノがこんな心配そうな目を向けてくるのかが、アルヴィーゼにはわからなかった。
セラフィーノはただ純粋に、故国を失ってしまった人間の行く末を心配しているだけで、恋の感情に支配されてそんなことを言っているのではないことが 直感で感じとれていたから なおさら、アルヴィーゼの戸惑いは些少のものではなかった。
セラフィーノの優しい心が、恋情に劣るものだと思うわけではないのではあるが。

アルヴィーゼの横顔に更に暗い陰が走るのを認め、オルセオロ補佐官は、セラフィーノを振り返って言った。
「セラフィーノ。人の心を動かす第一の要因は美しさだ。とりあえず、その格好をどうにかしてきなさい。そんな埃だらけの格好でアルヴィーゼの心を動かそうとしても、成果は期待できないぞ。それまでアルヴィーゼは引きとめておく」
「アルヴィーゼは、そんなこと気にする人じゃありません!」
間髪を入れずに、セラフィーノが鋭い声でできた答えを返してくる。
元首補佐官は、その言葉に静かに微笑した。

「では、父と兄の目を楽しませてくれ」
「父上だって、そんなこと気になさらないくせに……」
父が、自分のいないところでアルヴィーゼと話をしたがっているのだということを察して、セラフィーノが、それでもしぶしぶ元首補佐官の執務室を出ていく。
「本当に、引きとめておいてくださいね!」
セラフィーノが残していった懇願は、まるで幼い子供の涙のように一途だった。






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