「さて」
セラフィーノの姿が執務室から消えると、元首補佐官はそれまで下の息子に向けていた優しげな表情を一変させた。
「ともかく、まずは礼を言おう。私とオリヴェロットの船は一度トルコ軍に拿捕されてね。商船を装っていたので、最悪の事態は免れたが、もしセラフィーノが乗っていたら大変なことになっていただろう」
オルセオロ補佐官は、ドアの前に無言で立っている長兄と一瞬視線を見交わし、そうしてから その瞳に微かに安堵の色を浮かべた。

「私がセラフィーノを君に託した理由は、二つある。一つはセラフィーノの身をスルタン・マホメット2世から守るためだ。神を冒涜しきったスルタンのあの趣味のことは、君も知っているだろう。ビザンティン帝国の大蔵大臣フランゼス殿の子息、宰相ノタラス殿の子息もスルタンに捕らえられ、その欲望を拒絶したため処刑された。だが、セラフィーノは──セラフィーノが もしスルタンに捕らえられたとしたら、決してスルタンは処刑などという幸福をセラフィーノに与えてはくれないだろう。あの子が異教徒の王に汚されるなど、我々には到底我慢できることではなかった。コンスタンティヌス帝は、だから、セラフィーノを守るために、君を我々に遣わしてくださったんだ。陛下が君に守れとおっしゃった一対の宝石とは、セラフィーノのことだ。あの子のあの瞳のことだよ」

「な……」
オルセオロ補佐官の言葉にアルヴィーゼは息を呑んだ。
そして、しかし、すぐに納得した。
マホメット2世の同性愛嗜好がローマ法王に非難されるほどのものだということは知っていたし、『オルセオロ家の真珠』の噂はコンテタンティノープル中に流布していたのである。
それでなくても、髭を蓄えていない男はすべで男色の相手とみなすトルコの風潮は西欧に知れ渡っていた。
オルセオロ補佐官の用心は当然のものだったろう。
オルセオロ補佐官の船がトルコに拿捕されたのも、計画のうちだったのかもしれない。
みすぼらしい服を着けて陸路をヴェネツィアに向かう二人連れから、トルコの目を逸らすための。

「では、俺が預かった宝石は……」
「あれは、陛下が君に――君の将来に役立てるようにとおっしゃって、私にお預けくださっていたものだ。あの石二つで大きなガレー船が10隻は買える。今の君は、ヴェネツィアでも有数の金持ちというわけだ」
「……」

それは、ビザンティン帝国最後の皇帝の臣下への思い遣りだったのかもしれないが、コンスタンティヌス帝にしては人の心の機微を心得ていない贈り物だと、アルヴィーゼは思ったのである。
悲しい気持ちで、そう思った。
「俺は、傭兵ではなく、ビザンティン帝国軍の軍人です。俺に必要なのは、守るべき国と仕えるべき主君で、その二つを失った人間に、富が何の役に立つというんですか」
アルヴィーゼが、怒気を含んだ声を無理に抑えながら、呻くように言う。
元首補佐官は、そんなアルヴィーゼに同情した様子は見せなかった。
「陛下は、君のために、ちゃんとそれも準備しておいてくれた」
「は?」
アルヴィーゼが顔をあげると、オルセオロ補佐官は微かに頷き、そして、その視線を虚空に投げた。

「──セラフィーノは不幸な子でね」
「……」
突然 話が妙な方向に向けられたことを、アルヴィーゼは訝った。
元首補佐官が、アルヴィーゼの怪訝そうな面持ちには気もとめず、話を続ける。
「生まれるとすぐに、あれは母親を失った。しかし、私はその分あの子を愛してきたつもりだし、あの子は奇跡のように美しく賢くて、私の自慢でもあった。幸福にしてやれると思っていたな、あの子が幼いうちは」
まるで今のセラフィーノが不幸であるかのような元首補佐官の口振りは、アルヴィーゼには不可解なものだった。

「最初は、あの子が10歳になった時だった。私は、あの子の肖像を描かせようと考えて、フィレンツェから一人の画家を呼び寄せた。清楚なマリアを描くことで有名な、自他共に認める天才画家でね。初めてセラフィーノを見た時、それは感激していた。セラフィーノ自身の肖像を描くことはもちろん、その面影を忘れずにいれば、この先どんな聖母も天使もモデル無しで描けるようになると言ってね。セラフィーノも絵画には興味があったので、結構楽しんでモデルを務めていたんだが──」

いったいどれほどの天才なら、あの雪花石膏アラバスターの肌を画布に写しとることができるのかと、アルヴィーゼは思った。
美女を気取るヴェネツィア女の手入れの行き届いた肌でさえ、セラフィーノの肌に比べたら、象のそれである。
まして、あの海緑色の瞳を、感情も体温もない絵の具が表現しきれるはずがないではないか。
オルセオロ補佐官が言葉を澱ませた原因も、どうやらその辺りにあったらしかった。

「その画家には、セラフィーノを描ききることはできなかった。彩色に取りかかった頃から彼は苛立ち始め、そして結局、セラフィーノの目の前で、あの子を描いていた画布をずたずたに引き裂いてしまったんだ。繊細なあの子には、それだけでも大変なショックだったというのに、あの男は──」
その時の怒りを、元首袖佐官は思い出したらしい。
彼は きつく拳を握りしめた。
「己れの腕の未熟をセラフィーノのせいにして、あろうことか、あの子の命を奪おうとしたんだ……!」
無理に穏やかに話そうとしているだけに、かえって元首補佐官の憤りがアルヴィーゼには強く感じとれた。

「オリヴェロットがちょうどその場に来あわせて、幸い セラフィーノは無事だったんだが、あの子はすっかり怯えてしまい、それからしばらくは私と兄以外の人間に会うことさえ怖れていた。私は──」
元首補佐官が深く息を吸い、そして吐き出す。
「私は、それを、画家の──芸術家の美に対する敏感さと、奴の自惚れの招いたことだと思った。決してセラフィーノのせいではなく、セラフィーノに罪はないのだと。……しかし、再び似たようなことが起こった」
オルセオロ補佐官は、彼が その画家をどう処罰したのかは口にしなかった。
が、アルヴィーゼには薄々わかったのである。
口数の少ないセラフィーノの兄が、おそらくは父以上にセラフィーノを溺愛している兄が、どれほど冷酷な目をしてその画家を“処分”したのかが。

「その次は、あの子のために雇った哲学教師だった。若くしてパドヴァ大学の教授に迎えられた人文主義者で、プラトンに傾倒していて──セラフィーノを見るなり、美のイデアの具現だと、大仰に驚いてみせてくれたよ。相手は美の世界に生きる画家ではなく、処世の術に長けて、それ相当の地位を与えられた学者なのだから、その大袈裟な驚きようも、半分はヴェネツィアの元首補佐官の息子への世辞なのだろうと、私は受けとった。……愚かなことに」
元首補佐官が苦々しげな表情を浮かべ、オリヴェロットはそんな話など聞きたくないといった風情で、横を向いている。

「だが、私以上に、あの学者は愚か者だった。理性を極めれば 人は神の高みにのぼることができるなどと説きながら、あの学者は、美のイデアに魅入られ、狂気に陥っていったらしい。あの不届き者は、まだ11歳にもなっていなかったセラフィーノを暴力で汚そうとした。セラフィーノの泣き叫ぶ声を聞いて駆けつけた我々に、あの学者は何と言ったと思う? 『美のイデアから生ずる真の快楽を追い求めようとしただけだ』と、狂人の目をして喚きたておった。ヴェネツィア一の学者が聞いて呆れる……!」

元首補佐官の憤りは、そのままアルヴィーゼの憤りでもあった。
だが、アルヴィーゼには、セラフィーノに魅入られていった画家たちの心情がわからないでもなかったのである。
恐れるか求めるか──その二つ以外、セラフィーノ自身でない人間たちに選べる道があるだろうか。
それはもちろん、セラフィーノには望みもしない災厄であっただろうが。

「あとはもう、みな似たようなものだ。音楽教師、語学教師、各国の大使、司祭、枢機卿──それぞれの分野で当代随一といわれた知識人たちが皆、あの子に屈伏し、ある者は狂い、ある者は隷従を望み──我々は、セラフィーノをなるべく他人の目に触れないようにしなければならないと悟ったんだよ。ヴェネツィアの貴族の子弟が学校に通う歳頃になっても、あの子を外に出すことはできず、結局我々はコンスタンティノープルに居を移した。そして、できるだけ人目につかぬよう、あの子を世間から隠し通してきた。同年代の友人の一人もいないまま、少年らしい遊びも知らないまま、あの子は日々を過ごしてきたんだ」
「……」

それは、セラフィーノのあの澄んで輝く瞳からは、想像もできないことだった。
アルヴィーゼは早くに両親を失い、豊かとは言い難い少年時代を過ごしてきたが、心身の自由はいつでも自分自身のものだった。
野心を持つことも、希望を持つことも、そのために努力することもすべて、自分の意思に従うことができたのである。

「セラフィーノは、姿の美しさ以上に、多くの価値あるものを、その内面に持っているというのに、誰もそれに気付かず、そして、誰もあの子を一人の人間として扱ってはくれなかった。あの子は、いつも自分の存在する意味を考えていたよ。自分の存在には何の意味も価値もないと考えるようになりかけていた。ただ、家族だけが、家族だという理由だけで自分を愛してくれるのだ、とね。そんなところに、今回のトルコのコンスタンティノープル攻略だ。私は、皇帝陛下と密約を交わした」
「密約──とは……」

ヴェネツィアは、君主なき共和国である。
他国の君主と密約を結ぶ権利は、たとえヴェネツィア元首の決定を覆す権限を持つ元首補佐官といえども、有してはいないはずだった。
アルヴィーゼの懸念を察したらしい元首補佐官が、その懸念を払うように 右の手をあげる。
「国と国の密約ではなく、父親と父親の結ぶ密約だよ。私は、陛下にとって息子同然である君の将来の経済的社会的保障を、陛下は、その代わりに、君を私の息子にくださるとおっしゃった。君なら、セラフィーノの外面の美しさにだけ目を奪われるような愚は犯さないと、保証してくださったんだ」
「陛下が……」

「何を根拠に──と、私は思った。君などよりもっと人生経験を積んだ大の大人たちが、みなセラフィーノに屈伏していったのに、なぜ君のような若者が、とね。だが、コンスタンティノープルの私の邸を訪れた君を見た時、陛下の確約の根拠と懸念とを、私は理解した。君の目は、絶望の色を濃く映して、己れの無力感に打ちひしがれていた。君に必要なのは、失われる故国と主君の代わりに愛と忠誠を向ける対象で、それがなければ、君は 自暴自棄に陥り破滅していくだろうと、私は思った。しかし、君が他国の君主に忠誠を誓うことを皇帝陛下への裏切りと考えるだろうことは火を見るより明らかだ。陛下はそれを見越しておられたのだろう。幸いなことに、セラフィーノは一国の王ではないのでね」

「俺に──ご子息の奉仕する騎士カヴァリエレ・セルヴェンテになれとおっしゃる」
「ただのカヴァリエレ・セルヴェンテではない。あの子は有能な子だ。いずれはヴェネツィアの国政に関わる立場につく。だが、不幸なことに、あのような姿では、あの子は大使にも領事にも評議会や監視委員会の一員になることすらできないだろう。自分の才能を発揮できる場を持てないことで、あの子は苛立つことになる。だから私は、あの子を支え、守り、慰め、そして、あの子の手足となって表立って動ける人間を探していた。皇帝は、君を推薦してくれたよ」
「……」

「陛下は、君に目的を持って生き続けてほしかったのだ。セラフィーノには、君が仕えるだけの価値がある」
オルセオロ元首補佐官は、低く、だが力強く断言した。
「その価値をわかってほしくて、私は、危険な旅に君とセラフィーノを送り出したんだ。そして、セラフィーノには、家族でない者の中にも、あの子を人として認めてくれる人間がいることを知らせてやりたかった。──目的は達せられたと、私は思っている」
元首補佐官に反駁することは、アルヴィーゼにはできなかった。
確かに、アルヴィーゼはセラフィーノの中に小さな希望を見い出しかけていた。

だが、アルヴィーゼには、それで納得してしまうことができなかったのである。
というより、自信を持てなかった。
オルセオロ家の一員として、ヴェネツィアの経営と陰謀に加わらざるをえなくなるだろうセラフィーノの手足として動くことに不満があるわけではない。
西欧世界一の富と繁栄を誇るヴェネツィアを動かすことに、生きる目的としての不足があるわけでもなかった。

そうではなく──セラフィーノに対して自分が抱いている思いの中に、多分に恋の感情が含まれていることが問題なのである。
セラフィーノがこれまで耐えてきた不幸な出来事を知らされて、セラフィーノを守ってやりたいという思いは更に深まったが、それは、恋と両立し得るものなのだろうか。
オルセオロ補佐官やコンスタンティヌス帝、そしてセラフィーノの望む通りの人間であり続ける自信が、アルヴィーゼにはなかったのである。






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