「元首補佐官殿。しかし、俺は──」
アルヴィーゼが、その不安を元首補佐官に告げようとした──時。
「アルヴィーゼ。ヴェネツィアに留まる決心はつきました?」
身仕舞いを整えたセラフィーノが、執務室の扉を開け、中に飛びこんできた。
清潔なヴェネツィア貴族の平服。
純白のヴェネツィアン・レースの袖口からのぞく白く細い指が、何かを求めるかのように宙を掴み、長い廊下を駆けてきたために頬を薔薇色に上気させたセラフィーノの姿を見た途端、アルヴィーゼは、オルセオロ補佐官に告げようとしていた言葉を、喉の奥に呑み込んでしまった。
セラフィーノのいないところでは、もう何の喜びも見い出せなくなっている自分を、アルヴィーゼは その一瞬に自覚したのである。

「絶対に、アルヴィーゼには休養が必要ですよ。お願いですから、ここにいてください。皇帝陛下がアルヴィーゼをヴェネツィアにお遣わしになったのは、きっと、アルヴィーゼが帝国の死に殉ずることを望んでいらっしゃらなかったからです」
トルコ兵で溢れているコンスタンティノープルにアルヴィーゼが取って返すことを、セラフィーノは怖れているようだった。
皇帝のいない帝都に戻る意思は、既にアルヴィーゼの中にはなかったのであるが。

「父や兄も、きっと喜んで歓待してくれます。僕の初めてのお友だちなんですから」
セラフィーノの瞳がいつにも増して輝いているのは、窓から射し込むヴェネツィアの陽光のせいでもなければ、無事に父と兄の許に帰り着いた安堵感のせいでもなく、ただただ初めてできた“お友だち”を自分の側に引き留めておきたいがためなのだろう。
そして、おそらく、セラフィーノにとって、“お友だち”というものは、恋人よりも、主君よりも、富よりも、人生の勝利よりも価値あるものであるに違いなかった。

今になってアルヴィーゼは、ラグーザの町を見下ろす丘でのことをセラフィーノがどう受けとめたのかを理解することができた。
命を奪われかけたり、力づくで犯されかけたりすることに較べたら、あんな口付けの一つや二つはまるでまともな態度のうち──友だち同士で肩を叩き合う程度のことでしかなく、セラフィーノはすっかり、アルヴィーゼを、人としての理性の勝った礼儀正しい“お友だち”だと思い込んでいるのだ。

(俺が狼にならなかったのは、故国を失い、陛下に見放されたたと思って、自分に失望していたからにすぎないんだぞ……)
「アルヴィーゼ……」
アルヴィーゼの気も知らず、セラフィーノが 縋るような眼をして、その名を口の端にのぼらせる。
この先どんな美女に出会おうと、セラフィーノに較べたら 滑稽に着飾った鳥としか映らないだろう眼の持ち主になってしまった自分に、アルヴィーゼは長い息を洩らした。
(どちらにしても苦しむことになるのなら、この真珠の側にいられる喜びと共に苦しむ方が、まだ救いがあるのかもしれないな……)

コンスタンティヌス11世はこんな事態になることを見越して、アルヴィーゼをセラフィーノに与えることにしたのだろうか。
セラフィーノに会ったことのあるコンスタンティヌス帝が、その可能性に考え及ばなかったはずはない。
もしかしたらコンスタンティヌス帝は、息子同然と思っている融通のきかない親衛隊長に、面白がって この試練を課したのかもしれなかった。
『私はそなたの父親代わりなのだから、息子に試練を与えるのも愛のうちだ。感謝してくれねば困るぞ』
──そんなふうに思いながら。
それが主君の最期の命令だというのなら、アルヴィーゼは従うしかなかった。
「ね、アルヴィーゼ。僕の側にいでくれますよね?」
そして、それが新しい主君の最初の命令だというのなら、アルヴィーゼは従うしかなかったのである。

セラフィーノの懇願を拒めるはずがないという顔をして、元首補佐官はアルヴィーゼを見やっている。
アルヴィーゼはもう一度長い吐息を洩らして、セラフィーノに頷いた。
その途端、まるでヴェネツィア中の光が すべてそこに集まったかのような笑顔を、セラフィーノはアルヴィーゼに見せてくれたのである。
眩しさに、アルヴィーゼは目を細めた。






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