「瞬……」

その日はアテナが聖域を出ていた。
一輝たちも、アテナと行動を共にしていた。
どこぞに地上に害を為す新たな敵が現われたという話だった。

それが何だというのだろう。
そんな敵を倒して、この地上に平和が訪れるものだろうか。
邪な心に支配されたモノたちは、この地上にありふれている。
神の名を名乗って、地上を闊歩しているではないか。


地上の平和を守るために、瞬を犠牲にし、氷河の心をも犠牲にした神々。

(その神に同感できる一輝がいるんだ。一輝なら、たとえ瞬がハーデスに支配されたとしても、実の弟に拳を向けることができるだろう。心配することはないさ)

氷河は、今は、瞬の兄の強さを軽蔑していた。
おそらく、その一輝の力をもってしても、彼一人ではハーデスを倒すことなどできはしないのだろうが。




「……瞬」

無駄と知りつつ、氷河は瞬の名を呼び、水晶の棺に手を伸ばした。
そして、透明な薔薇色の棺に触れる。


触れる――?


氷河は、息を呑んだ。

つい昨日まで、氷河はその棺に触れることすらできなかったのだ。

(アテナがいないせいか……?)
人と神から、人でも神でもない瞬を遠ざける結界が、今は消えていた。


「……瞬」
氷河は、初めて瞬を抱きしめた時のようにそっと、棺の上に両の手を置いた。


禁じられたからこそ強さと激しさを増すのだ。
瞬を求める思いは。



――その時だった。

『氷河……』

瞬の声が――懐かしい、優しい、瞬の声が――氷河の全身を包んだのは。


棺の中の瞬は動かない。
その瞼は閉じられたままである。

だが、それは瞬の声だった。



「瞬……! 瞬、どこだ」
目の前にいる瞬に、氷河は尋ねた。
どこだ、どこにいる? ――と。


『氷河、僕、動けないの』
『僕……氷河の側に行きたいのに』


「瞬……!」

すがるように哀しい瞬の悲痛。

瞬に救いを求められ、氷河は全身が痙攣するような喜びを覚えた。
瞬は地上の平和のために、彼を愛する者の心を無慈悲に切り捨て、従容として神々の呪縛に身を任せたのではなかったのだと知って。

アテナが聖域にいない今なら、もしかしたら――氷河はそう考えて、拳を構えた。
が、その彼を、瞬の声が止める。

『無理だよ。やめて。氷河が傷付くのは見たくない』

「瞬、しかし、今なら……!」

『まだ無理なの。僕の力はまだ弱くて……。氷河、僕を助けてくれる?』

「俺にできることがあるのか!?」

『僕に必要なのは、人の愛なの。それだけが、僕の力になるの』



「俺の持っているものはすべておまえにやる! すべてだ」





一瞬の迷いもない氷河の返答に、瞬は――瞬の声は、輝くように微笑した。








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