地上でどんな異常なこと――神をも畏れぬ不自然なこと――が行われていたとしても、この世に明けぬ夜はない。


翌朝、異常の夜を、まんじりともせず過ごした星矢・紫龍・一輝の三人は、ラウンジの扉の前に並んで現れた氷河と瞬の姿に気付くと、掛けていた椅子から弾かれるように立ち上がった。


「瞬! 首尾はどーだった?」
星矢が瞬に駆け寄り、

「おい、氷河。おまえ、大丈夫だったのか?」
紫龍が氷河に尋ねる。


「ああ」

氷河は、今日のこの日も、いつもと変わらない無表情で、何が大丈夫だったのかわからないような返事を返してよこした。

あまりに簡略なその答えに紫龍は少々不満を覚えたのだが、良識ある日本男児の紫龍には、『腰の方は大丈夫だったのか』などと訊くことは到底できなかったのである。


それはともかく。

平生と変わらぬ様子の氷河とは対照的に、彼の横で深く俯いている瞬にはいつもの明るい笑顔がなかった。


「瞬?」

兄に名を呼ばれ、ゆっくりと顔をあげた瞬の瞳に見る見る涙が盛り上がってくる。

「に…兄さん……っっ!」

次の瞬間、瞬は、泣きながら兄の胸に飛び込んでいた。


「どうしたんだ、瞬? ……夕べは――」

「氷河がひどいの! 氷河がひどいんだよっっ!」

瞬は、兄の広い胸で身も世もなく泣きじゃくり、一輝はといえば、愛する弟の涙に困惑顔。
見慣れているから動じずにいられるという類のものではなかったのである、瞬の涙は、一輝にとって。

瞬の涙に戸惑った一輝は、故に、愚問をかました。

「瞬、この毛唐に何かされたのか」

全くもって愚問である。
“何か”はされたに決まっているではないか。

しかし、今の瞬からは、兄の愚問を愚問と判ずる力さえ失われていた。
幾度もしゃくりあげながら、瞬は、素直に兄の愚問に答えたのである。

「氷河が……氷河が、攻めってどうすればいいのかを教えてくれたの」
「ああ、それで?」

一瞬の後、無思慮にそう尋ねたことを、一輝は地獄の底より深く後悔することになった。

なにしろ、瞬の答え――恐るべき瞬の答えは、

「攻めの人って、ベッドに横になったら、受けの人の髪を撫でて、真剣な顔して、優しい声で『おまえは本当に可愛いよ』って言わなきゃならないんだって……っっ!!」

――だったのである。




「う……」

マジで10秒、一輝の心臓はその活動を停止した。

「僕、そんなこと出来ない! 氷河の顔見て、氷河にそんなこと言えないよぉっっ!!!!」

一輝の心臓がやっと活動を再開したのに合わせて、瞬の泣き声が一層大きくなる。



「そ…それは……」

それは、瞬でなくても言えないだろう。



瞬の叫びは悲痛だった。
悲愴だった。
悲嘆に暮れていた。
しかし。

瞬の嘆きは真剣だった。
切々たるものだった。
哀愁すらも帯びていた。
だが。


実際のところ、これは確かに重要、かつ、シリアスな問題ではあるのである。
事は、同性間差別、男の尊厳、男の沽券、しいては、人間の存在理由、基本的人権、つまりは、自然、倫理、宗教、哲学にまで関わる、人類永遠の課題なのだ。



しかし、この場で、瞬の涙に心底から同情する余裕のある者は誰ひとりいなかった。



笑ってはいけないのだと、必死で吹き出したいのをこらえている星矢の横で、紫龍が顔面を硬直させている。

不幸にも、彼は想像してしまったのだ。
瞬が、このデカい図体の無愛想な金髪男の髪を撫で、『氷河はほんとに可愛いね』と囁いている、悪夢のようなシーンを。






――この世には、絶対零度以下の温度が確かに存在する。





今この瞬間、紫龍のアタマとココロの温度がそうだった。








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