最初の宮は、白羊宮。
対する黄金聖闘士はアリエスのムウ。


まあ、彼は、一応味方である。
分別があるところを利用するしかあるまいと、氷河は腹を決めた。

「よく来ましたね、キグナス。美味しい手料理を期待してますよ」
と、にこやかに告げるムウを無視して、氷河は、白羊宮の正面に据えられたシステムキッチンの前に立った。

流し台の横には、山と積まれた食材の数々。
穀類、野菜類に始まって、肉、魚介、果物、乳製品、各種調味料まで、無いものは無いというほどの品揃えである。
これと同じものが同じ量だけ、聖域の各宮に容易されているのかと思うと、このイベント企画者を殴りたくなるほどの無駄遣い――ではあった。
しかし、今は、いったい聖域の管理運営費はどこから出ているのかなどということを考えている場合ではない。

ともかく、愛する瞬を再び我が手に抱くため、氷河は、生まれて初めてフライパンなる物体をその手に持ったのだった。


料理。

美味い手料理。


それがどれほどの困難を伴い、どれほど強大な小宇宙を要するものなのかは見当もつかないが、ここは本能でやりぬくしかない。

氷河は初めて挑む闘いの前に、一度瞑目した。
そして、深呼吸を一つ。


「では、いくぞ」

意を決するなり、氷河は行動に出た。

テフロン加工されていないフライパンに油も敷かず、殻を割っていない卵を丸ごと1個その中に入れ、更にそれを木ベラでぐしゃりと潰す。

そうして、火が通るのを待つこと3分。
彼の丁寧この上ない料理の様に、ほとんど点目になりかけていた牡羊座の聖闘士に向かって、氷河は、フライパンごと、“美味しい手料理”を差し出したのだった。

「さあ、ムウ。目玉焼きだ」

「………………」

これを目玉焼きと言い切る男。
ムウは、我知らず戦慄していた。

はっきり言って――はっきり言うまでもなく――それは、目玉焼きどころか、スクランブルエッグとも呼べない代物だった。こんなものを食べたら、口の中が傷だらけになってしまうこと、まず間違いはない。

「…………キグナス。私は、少々不味いものを出されても『美味い』と言ってやるつもりだった。しかし、これではあまりに……」
自分に対する同情7割、氷河に対する同情3割で、ムウが言葉を紡ぎ出す。

が、氷河は彼の言葉をきっぱりと遮った。
「ムウ。黄金聖闘士の中でも、一、二を争うほど賢明な貴様ならわかっているはずだ。ここで貴様が一言『不味い』と言えば、この話は終わり、楽をするのはこれを書いているバカ女だけだということが」

「…………」
氷河のその言葉に、ムウが黙り込む。

その通り、筆者は祈る思いで、ムウの『不味い』の一言を待っていた。
が――。

55分沈思黙考した後、ムウは箸を手に取り、氷河の作った手料理の端を
ほんの一かけらだけ食し、無情にもその言葉を口にしたのである。

「美味い」

氷河が、ムウのその言葉に、さもありなんとばかりに頷く。

「さすがは、黄金聖闘士中最も賢明な男だけある。素晴らしい判断力だ」
『一、二を争う』から『最も』に格上げしたのは、単なるサービス精神ではなく、案外氷河の本心だったのかもしれない。

この先で待つ黄金聖闘士たちもムウのごとく賢明であってくれれば――と願いつつ、氷河は白羊宮を後にしたのだった。







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