「僕が、あなたの取材の申し出を受けたのは、あのパスワードをあなたに教えるためでした」 古いベッドの他には、小さなライティングデスクとそれ用の椅子しかないホテルの一室で、瞬は、座り心地の悪い椅子の方を選び、腰掛けた。 「あのパスワードは僕しか使えないパスワードなんです。僕がコンピュータにアクセスしている時に、あのパスワードでグラードのコンピュータにアクセスしてくる人や、僕がコンピュータに触れられない場所にいる時アクセスしてくる人がいたら、すぐに逆アクセスするシステムが作動するようになっているんです」 では、グラード財団は平和ぼけした日本の他の大企業群とは一線を画していたということになる。 パスワードを洩らした当の本人からそんな説明を受けることになっても、やはりあどけなさを残す子供にしか見えない瞬に、氷河は混乱を覚えていた。 瞬が子供なのか、それともそれは見せかけだけのものなのかが、氷河にはまるでわからなかった。 「でも、一ヶ月待ってもアクセスしてくる人がいないから、あなたは僕が漏らしたパスワードを組織に伝えずにいてくれているんだとしか考えられなくなって……探したんです、僕、あなたのこと、必死になって」 そう言って切なげな眼差しを投げてくる瞬は、甘口のカクテル一口で倒れてしまった時の瞬や遊園地ではしゃいでいた時の瞬と、まるで変わったところがなかった。 氷河はそれこそ必死になって、自分が好きになった瞬と、今自分の目の前にいる瞬との相違点を探り出そうとしたのだが、それはやはり同じ人間だという結論しか出てこない。 言葉使いが少しばかり大人びているのは、背後に控える二人のボディガードへの配慮なのだろうし、瞳の素直な輝きは氷河の記憶にある瞬のそれと全く同じだった。 「あなたがとても甘ちゃんのスパイだということがわかって、グラードの中には少しばかりがっかりした人もいたようでしたが……。でも、僕個人はとても嬉しかった」 「瞬……」 「あのパスワードを僕から教えられて、グラードのコンピュータにアクセスしてこなかったのは、あなたが初めてでした。今までずっと信じて教えた人たちに裏切られ続けていたから、僕は本当に嬉しかったんです」 瞬は言葉通りの微笑をその瞳に浮かべたが、その言葉は、氷河には聞き捨てならないものだった。 「パスワードを教えられて……って、まさか、おまえ、俺と同じように他の……」 「え…?」 氷河が急に気色ばんだ理由が、瞬にはすぐにわからなかったらしい。 少しの間を置いてから、瞬は困ったように肩をすくめた。 「やだ、誤解しないでください。僕、そんな趣味はありません」 「…………」 なら何故俺とは寝たんだと訊くのは野暮――なのだろう。 混乱してはいたが、それを訊かないだけの分別は氷河にも残っていた。 「そういうことになる前に、僕は教えてしまうんです。情報を得た後なら、相手もあまり深追いはしてきませんし。あなたとああいうことになったのは……あなたがいつまで経ってもそのことに触れないから、僕の方が焦れてしまって……。僕はあなたのこと信じたかったから、コンピュータのパスワードなんてさっさと教えてしまいたかったのに」 一瞬、拗ねた仔猫のような視線を氷河に投げてから、瞬は、慌てて表情を引き締めた。 この場にいるのが自分たちだけではないということを思い出したらしい。 「グラードの麾下に入ってください。僕たちの組織があなたを守ってあげます。グラードには諜報機関なんて下劣な部門はないですけど、僕のボディガードくらいならできますよね?」 氷河は、これまで、その下劣な部門でかなりの実績をあげてきたのである。 初めての失敗は、恋のせいだった。 相手が、氷河に裏切ることを許さない真正直な子供に見えたせいだった。 否、それは過去形ではなく、錯覚でもない。 それはわかっていたのだが。 「幾らスパイとして失格だからと言って、そう簡単に雇い主を乗り換えていたら、グラードの中でも信用はしてもらえまい」 意地を張るのが男の美学だというのなら、そんなもののどこに価値があるのだと自分に毒づきながら、それでも氷河はそう言った。 瞬は、そして、瞬も、同じ気持ちでいたらしい。 「あなたを守るのはグラードですが、あなたを雇うのは僕個人です…!」 ぴしゃりと氷河の言葉を遮ってから、瞬はすぐに泣き出しそうな目になった。 「お願いです。意地を張らないで。僕の心臓にこれ以上負担をかけないでください。待遇は氷河の希望に沿うようにします。報酬はどれくらいを望んでるの?」 自分が見事に飴と鞭を使い分けていることになど、瞬は気付いてもいないのだろう。 瞬はただ、欲しいものを欲しいと、真っすぐ氷河に要求しているだけなのだ。 瞬は、氷河などに太刀打ちできる相手ではなかった。 「……おまえを毎晩抱きたい」 氷河に、彼の望む報酬を要求されて、瞬の頬はぱっと薔薇色に染まった。 |