そこに――。 もう一人、瞬のためにならいかなる愚かな振舞いもしでかすだろう男が近付いてくる気配を感じて、星矢と紫龍は舌打ちをした。 瞬の身体に宿ったハーデスとの闘いの場で、氷河は砂ネズミ一匹ほどの役にも立つまい。瞬に骨抜き状態の氷河では、役に立つどころか、むしろ、ハーデスの味方にもつきかねない。 氷河に瞬の身体を傷付けることなど、できるはずがないのだ。 (なにしろ、奴自身が丹精込めて磨き上げた身体だからな) ――などという下世話なセリフを口に出すのも躊躇われる、緊張感に満ち満ちたこの場面。 しかし、この場に超不釣合いなその男は、星矢たちとは全く別の緊張感を身にまとって、冥界の王の前に堂々と登場した。 登場するなり、開口一番、 「おい、星矢。瞬はどこだ」 ――である。 「あー、氷河、おまえはどっかへ行ってろ。この場は俺たちが何とかすっから」 星矢は、それでなくても複雑極まりないこの場面に、更に混乱の素を投げ入れるような真似をしたくなかった。氷河の視界に瞬の姿が入らないように、さりげなくハーデスの玉座を背にして氷の聖闘士の前に立ちふさがる。 が、氷河の視界を遮るには、星矢は少々身長が不足気味。 星矢の頭越しに、氷河はしっかりとハーデスの姿を目にとめ――そして、彼は顎をしゃくってハーデスを指し示しながら星矢に尋ねてきた。 「なんだ、こいつは」 「へ?」 ハーデスの姿を認めた氷河のセリフは、星矢が予想していたものとはかなり違っていた。 氷河の口振りは、変わり果てた恋人の姿を見い出した男のそれというよりは、幸せの青い鳥を捜してやってきた夜の宮殿で闇夜のカラスに出会ってしまった男のそれで、彼はどうやらハーデスが、あまり気に入らなかったらしい。 「なんだ…って言われても……」 いくら今の氷河が片目に傷を負っているとはいえ、見たらわかりそうなものではないか。 少々変色しているとはいえ瞬と同じ髪、少なからず眉の線が異なるとはいえ瞬と同じ顔、普段の瞬とは違う趣味の衣装を身にまとっているとはいえ瞬と同じ身体――の持ち主。 これが瞬でなかったら、この世に瞬という人間は存在すまい。 「何に見えるんだ?」 星矢に尋ねられた氷河は、再び嫌そうにハーデスを一瞥した。 そして、一言。 「生意気そうなチビ」 「チ……余は冥界の王だぞ。青銅聖闘士ごときが、神たる余に向かって、何だ、その口のきき方は! 無礼な!」 チビ呼ばわりされたハーデスが頭に血をのぼらせて、氷河を怒鳴りつける。 しかし、怒鳴りつけられた氷河の方は、ハーデスの声など、そよ風程度にも感じていないようだった。 「ふん。で?」 「で、とは」 「だから、貴様は瞬の居所を知っているのか」 「瞬……とは、アンドロメダの聖闘士のことか」 「ああ、知らないのなら余計なことは言うな。俺も聞く気はない。聞くだけ時間の無駄だからな」 “生意気そうなチビ”が瞬の居場所を知らないのだと判断するや、氷河はさっさとハーデス無視を決め込んだ。 「ったく、どこに行ったんだ。どこで変質者に会うかもしれないから、一人では出歩くなとあれほどきつく言っておいたのに」 しかし、ここで青銅聖闘士ごときにその存在を無視されては、ハーデスも立場がない。 「そ…そなた、余を見て何とも思わんのか?」 「?」 氷河に、瞬以外の人間(?)を見て何かを思えと言ったところで、彼がマトモなことを“思う”はずがない。 氷河は、実に投げやりに、彼の思ったことを口にした。 「可愛げのないツラだな」 「…………」 琴を聞くような風流を耳は持ち合わせてはいないと豪語(?)するラダマンティスをして『この威厳、この神聖さ』と言わしめた冥界の王に対して、この倣岸。ハーデスもいい加減マトモな神経を保ち続けるのが苦痛になりかけていた。 「そーじゃなくてだな! 余がアンドロメダに似ているとか、アンドロメダそのものだとか、そーゆーことを思えと言っているんだっ!」 「なに?」 氷河にとって、ハーデスのその言葉は聞き捨てならないものだった。 「貴様、俺の瞬を侮辱する気かっ!」 なにしろ、氷河にとって、瞬は、“似ているもの”の存在さえ許されない絶対無二のものだったのだ。 「貴様、今の言葉を撤回しろ! ただのチビのくせに、何を思いあがっているんだ! 俺の瞬はなっ! 俺の瞬は、貴様のように不細工でもなければ、ふてぶてしくもない、偉そうに構えてもいなければ、不愉快なツラもしていないんだ! 瞬は、この世のものとも思えないほど可愛くて、仕草が優しくて、素直で綺麗な目をしていて、表情は和やかで、もちろん気持ちも優しくて、笑うとこっちまで溶けてしまいそうなくらいいい気分になる、天使にも妬まれそうなくらい清らかで純粋な心を持った、唯一無二、空前にして絶後、最上級にして至高の存在なんだ! 貴様のように下品な輩と一緒にされてたまるかっ !! 」 「……………………」 ハーデスが絶句しても、この場は仕方がないだろう。 氷河の視神経がマトモでありさえすれば、氷河の大絶賛は、本来ハーデスへの褒め言葉なのである。それが、絶賛している男の目がおかしいというだけで、侮蔑の言葉になるという、理不尽なこの事実。 絶句しているハーデスに、少々同情の目を向けながら、星矢は感心したように呟いた。 「なんか意外だぜ。氷河って、瞬の顔に惚れてたわけじゃなかったんだなー」 紫龍もまた、星矢同様の感慨を持って、仲間に頷く。 「本能で見分けているとしか思えんな。俺たちはへたにマトモな視力と判断力があるせいで、瞬の外見に惑わされているが、氷河は本能で、ここにいるのが自分の惚れた瞬じゃないということを感じ取っているんだ」 「瞬じゃないから、ハーデスは氷河にとってはどーでもいい奴…ってことか。なるほど道理だぜ」 だからといって。 理に適っているからといって。 “どーでもいい奴”扱いされるハーデスの方はたまったものではない。 「パ……パンドラ、この痴れ者は何者だ」 「ハーデス様、どうかお気になさらず……」 先程から、実はコキュートスに落とされた一輝が気になって仕方がないパンドラは、慰撫の言葉も気がそぞろ、である。 「……気にするなと言われても――余と、この痴れ者が褒めちぎったアンドロメダの聖闘士とで、どこがどう違うというのだ」 神とは存外に馬鹿な存在である。 ハーデスは氷河の前で言ってはならない言葉を口にして、氷河の神経を逆撫でした。 「瞬を侮辱するなと言ったはずだ! 俺の瞬は貴様のようにブッ細工で可愛げのないクロゴキブリ野郎とは違うんだ!」 「クロゴキ……だから、余がアンドロメダだと、さっきから言っとるだろーがっ!」 「貴様、まだ言うかっ!」 「おお、ゆーてやるわい! この馬鹿たれ聖闘士がっ!」 こうなると、神の威厳も神聖もあったものではない。 そして、知性と判断力も、今のハーデスからは失われていた。 無論、氷河にはそんなものは最初からない。 「ふっ。命知らずの愚か者め…!」 愛する瞬を侮辱されて黙っていられるほど、氷河は理性的な男ではなかった。 故に、彼は、即座に、小生意気なクロゴキブリを駆除するための戦闘態勢に入った。 |