暴れん坊将軍

〜モーモーさんに捧ぐ〜






「今宵も、上様の大奥へのお渡りは……」
大奥御年寄り絵島の口調には、既に諦めの色が混じっていた。
「ないだろうな。あの野原某という小姓を夜も昼も身辺から離す気配がない」
答える側用人脇坂も、浮かぬ顔である。

滅多に大奥から出ない御年寄りが表御殿にまで出てきたのは、時の将軍がこの半年間一度も大奥に足を踏み入れないという尋常ならざる事態を憂えてのことだった。
徳川宗家の嫡流が絶えたため、紀伊徳川家から鳴り物入りで江戸城に入った将軍が、一向に女性に興味を示そうとしないのである。

「これでは何のために紀州からお迎えしたのか……。上様より神君家康公に血筋の近い者は尾張家にも水戸家にもいたのですぞ。だというのに、上様を将軍家として迎え入れたのは、一重に、尾張や水戸の候補者がいずれもまだ若輩で子を為せる歳に至っておらぬ故。それが、江戸に入られてから半年、一度も大奥にお渡りがないとは」
「今度の上様は家康公には似ても似つかぬ美丈夫と聞いて、大奥の女子たちも喜んでおったようだが……」


御三家のうちの紀伊徳川家から選ばれて、現将軍が江戸城本丸に入ったのは、昨年の秋のことだった。
初めて大奥に新将軍のお渡りがあると聞いて、大奥一千人の女たち、その数倍の女中たちが色めきたって待っていたその日、中奥と大奥を繋ぐ御鈴廊下の手前で畏まっていた小姓を見初めた将軍は、彼を中奥の寝所へと連れ込んで、結局大奥へのお渡りを果たさなかった。
その日だけではない。
翌日も、そのまた翌日も、新将軍はいっかな大奥に通じる御鈴廊下を渡る気色を見せず、大奥の女たちが失意の日々を過ごすこと半年、今に至っているのである。

「まさか、そちらの方の能力に欠けているのを隠すための狂言――ということは……?」
「いや、それはあるまい。紀州にいらした時には普通に女子を相手にしていらしたようだし、実際野原某とは毎夜お盛んで、朝方あの野原某など見かけると、上様のお相手で疲れきった様子がまた壮絶に艶めいていて、あれでは上様でなくても、女子になど目を向ける気には到底なりますま……」
「脇坂殿! わらわは、そんな小姓の風体のことなど訊いてはおりませぬ!」

絵島にぎろりと睨みつけられ、脇坂は、遅ればせながら、自分が口を滑らせてしまったことに気付いた。
十代で大奥に入り、将軍のお手付きもなく歳を経た女の迫力は、なかなかに凄まじいものがある。
頼れるものは大奥での権力だけ、しかし、その大奥に将軍のお渡りが絶えてしまっては、大奥の存在意義からして失われてしまうのだ。
絵島の鬼気迫る表情も、当然と言えば当然のことではある。

「いや、その……」
迫力負けしてどもり始めた脇坂に、絵島は冷然として告げた。否、命じた。
「その小姓――野原某とか申したな。上様のご入城と時期を同じゅうして、尾張藩付家老成瀬正典殿の推挙でお城にあがったばかりと聞いたが、まあ、俗に佳人薄命と申すしの」
「そ……それは勿体無い……!」
「脇坂殿 !!  これは将軍家の存亡がかかった大事なのですぞ! 色小姓の命の一つや二つが何だというのじゃ!」
「しょ……承知しておる」
鬼女のごとく眉を吊り上げた絵島に、側用人脇坂は返す言葉も見付けられなかった。





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