確かに“暴れん坊将軍”は将軍にしかできないことである。
かくして、瞬は、自分の操(;;)の堅持の代償として、氷河がお忍びで江戸市中に出る手助けをさせられることになってしまったのだった。
昼も夜も小姓と寝所に閉じこもっていることになっている間、氷河は瞬を連れて城外に出て、弱気を助け強きを挫くセーギのミカタ“暴れん坊将軍・氷河”などというものを(恥ずかしげもなく)演じ始めたのである。

最初の数日間は、瞬自身、自分が何に付き合わされているのかを明確に認識しきれていなかった。
だが、間もなく、瞬は、初めて氷河に会ったあの時に、素直に彼に押し倒されていた方がどれだけマシだったかと、後悔することになってしまったのである。
実際、瞬には、将軍におねだりしたいことがないではなかったのだ。


が、瞬がそう思い始めた頃には既に、彼は後には引けない状況に追い込まれていた。
日をおかずして、江戸の巷で氷河の“暴れん坊将軍”は大人気を博することになってしまったのである。


そもそも将軍のお忍びなどというのが無理な話だった。
まして、異人並みに体格と顔の良い氷河が、これまた花のように可憐な小姓を従えて街を闊歩していたら、それだけで人目を引くのは避けられない。しかも、事あるごとに、いかにもいかにもな将軍家お庭番と毎回決まった団子屋で落ち合い、大声で密談を交わしている氷河に、瓦版屋――今で言うなら、スキャンダル雑誌の記者――が目をつけないはずがなかったのだ。
二人の正体はあっという間にばれてしまい、いまや、江戸市中で暴れん坊将軍の正体を知らないのは、堅物生真面目が売りの大岡越前守忠相とめ組の頭ぐらいというありさま。

登場するなり、
「私は貧乏旗本の三男坊、徳山氷河之介」
と名乗りをあげ、
悪代官・悪役人・悪徳商人・各藩江戸悪家老・悪御家人・悪旗本の本拠地に乗り込んでいっては、悪人共に、
「余の顔、見忘れたか!」
と大音量で叫び、
言われてそうする者などいないことがわかっていながら、バカの一つ覚えのように、
「潔く、腹を切れぃ!」
と、暴れん坊将軍は命じるのである。

悪人方は悪人方で、
「かような場所に上様がおられるはずがない」
と刃向かってくるのだが、彼等とて、暴れん坊将軍の正体などもとより承知のことなのだ。
なにしろ、昨今の江戸市中は、どこを歩いても“暴れん坊将軍とご寵愛様”のポスターがベタベタ貼られているのだから。


馬鹿馬鹿しくて付き合っていられないとは思うのだが、いくら何でも高みの見物とはいかないので、瞬も氷河と共に刃向かう悪人たちと刀を合わせざるをえないのだが、いっそのこと、悪代官の代わりに、
「上様の名を語る不届き者じゃあ!」
と叫んで、氷河の方に切りかかりたいと思うことがないでもない瞬だった。

悪代官の屋敷の周囲には、瓦版屋やミーハー娘たちが群れを為し、『余の顔、見忘れたか』の氷河の決めセリフが聞こえてくるたび、
「よっ! 将軍様、待ってました!」だの、
「忘れてなんかいないわ〜」だの
「上様、素敵〜」だの
「氷さん、こっち向いて〜」だの
「瞬ちゃんもかわい〜っっ!!」だのと、大歓声があがる。


井原西鶴の『男色大鑑』、武士道のバイブル『葉隠』が出回り、『恋は闇、若道は昼』とまで言われ、武士・町民・農民の子までがその道に走った時代、破邪顕正の剣を振るう超美形な二人は思いっきり時代の寵児だった。




その“暴れん坊将軍”稼業と平行して、氷河は、大奥にいる一千人からの女たちのリストラを敢行し、年間二十万石かかっていた費用を十分の一に減らす計画を発表。
その計画は、これまた、江戸の庶民に大受けした。

改めて考えてみるまでもなく、正義の味方の暴れん坊将軍が女を何人もはべらしていてはいけないのである。
それは正義の味方のすることではなく、悪代官のすることなのだ。
氷河の決定は、民衆の要望に完全にマッチしていた。

その当然の結果として、“暴れん坊将軍”とその“ご寵愛様”の二人組は人気爆発、下手な役者絵などよりこの二人の絵の方が売れると見込んだ複数の版元が、版権を争うという始末である。版元からはかなりの金子が幕府に入り、大奥のリストラが敢行されれば幕府の財政は更に潤うというわけで、やっていることは滅茶苦茶だが、確かにそれは善政ではあった。

年貢の負担が増えるわけでもなく、仕事の辛さを忘れられる最高の娯楽を与えられるのである。民衆の新将軍支持率はかるく9割を越え、旗本・御家人、各藩の反応も概ね好意的。


何故自分がこんなことに付き合わなければならないのかと苦悶はしても、氷河のしていることは悪事でもなければ間違いでもなく、正しく“正義”の断行であるがため、瞬は、氷河に暴れん坊将軍ごっこをやめろと強く言うこともできなかった。
氷河が意識しているのかしていないのかはわからないが、暴れん坊将軍の登場は幕府と民衆との関係をも良好なものに変えていったのだ。
こうなると、側用人や老中たちも、渋い顔をしながら暴れん坊将軍の活躍を見て見ぬ振り。
絵島から瞬暗殺を示唆された脇坂も、そんなことはすっかり忘れ果てていた。





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