「上様、もういい加減にこんなことはおやめください。ばればれなんですよ、上様が暴れん坊将軍だってことは。江戸市中に出るたび、“ご寵愛様”なんて呼ばれる僕の身にもなってください」
破天荒を極めている将軍に、瞬は今ではすっかり礼儀も身分も忘れていた。
言葉使いからして、敬語モードを保つのが困難な状況になってきている。
が、氷河は、元よりそんなことを気にするタイプの男ではなかった。

「騙しているようで気まずいのか? なら、そろそろ俺のものになれ」
「そーゆーことを申し上げているのではありません! 上様にはもう少し将軍様らしく構えていらして欲しいと……」

その日も二人は、いつものように悪代官をやっつけて、いつものように帰城の途についていた。
瞬暗殺を目論む殺し屋が二人の行く手を遮るのもいつもの通り、である。


夕暮れの桜田門の前に突如現れた黒い影。
その殺し屋の、いかにもセオリー通りの怪しげな登場に、氷河と瞬は苦笑を抑えることができなかった。
――のだが。

「お、また、刺客か? 大奥の奴等も本当に懲りな……ん…?」

今日の暗殺者は、いつもの暗殺者とは小宇宙の桁が――もとい、殺意の桁が数段違っていたのだ。

(できる…!)

敵の腕前が尋常でないことを感じとると、氷河は瞳を輝かせた。

なにしろ、これまで、お約束通りに、悪代官・悪旗本・各藩江戸悪家老を成敗してきたが、太平の世に慣れきった武士たちは、刀一本で食っているはずの用心棒たちさえ大した腕前を持っておらず、その点で氷河は大いに不満だったのである。
敵の大ボスより瞬の方がはるかに強いのでは、ちゃんばらどころかママゴトにもならない。

しかし。
今日の相手は違っていた。

「自源流……だな。瞬と同じ流派か」
対峙する相手が強い――のは、刀を交えるまでもなくわかった。
宗十郎頭巾に黒羽二重を着流し――というスタイルは、旗本退屈男を思い起こさせる。
まだ二十歳を二、三過ぎたばかりの氷河には、その趣味の渋さと良さが今ひとつわからなかったが、まあ、着物の趣味が悪くても、剣の腕前が確かなら、文句を言う筋合いもない。

氷河は瞬を背後に庇うと、一部の隙もなく下段に構えている刺客の前に立った。
久し振りに本気を出せそうだと、彼は緊張もし、浮かれてもいた。
いたのだが。

せっかくの楽しい打ち合いの予感は、しかし、思いきり出鼻を挫かれることになってしまったのである。

「あ…兄上っ !! 」
――という、瞬の叫び声によって。

「な…なに……っ !? 」

その一瞬の隙を突いて、刺客は刀を一閃させた。
その鋭い打ち込みを氷河がかろうじて封じることができたのは、刺客の方も瞬の声に動じていたからだったに違いない。

正体を見破られた刺客の常として、瞬の兄らしい男が宗十郎頭巾をはらりと外す。
氷河はその顔を見て、思いっきり顔をしかめた。
瞬の兄というのなら、さぞや目元涼しげな好青年が出てくるのだろうと思っていたのに、頭巾の下から現れたのは、目と鼻と口の数以外、瞬とは似ても似つかないムサい男だったのだ。見ようによっては、いい男っぷりと言えなくもないのだろうが、これが瞬の兄というのは、ただの詐欺である。

しかし、刺客の素顔を見ても瞬が前言を撤回しないところを見ると、この旗本退屈男が瞬の兄だというのは事実らしかった。
神をも怖れぬ詐欺行為に顔をしかめている氷河と退屈男の間に割って入った瞬は、兄の凶行をやめさせようと必死である。   

「おやめください。兄上! 上様を殺されたら、私も生きてはおりません!」
「瞬、そこまで、このようにふざけた男に……!」
「う…上様は、ふざけた方などではありません! 兄上、冷静にお考えくださいませ。兄上を陥れたのは田辺志摩、謂われのない罪で改易された兄上の無念はわかりますが、それは上様のせいではございません!」
「そのようなことはわかっておる! 城戸家などもうどうでもよいのだ! 俺はおまえを汚したこの男が許せぬだけだっ」
「兄上っ! 誤解ですっ! 上様は僕など相手にしてくださらない! そんな……そんなこと、一度だってしてくださらないの……」

氷河には訳のわからぬやりとりが、兄弟だという二人の間で交わされていたのだが、瞬の声が涙に潤み始めると、それまで殺気に満ちていた刺客の刀からは超光速で力が抜けていった。
それどころか、刺客は、武士の魂であるはずの刀をその場に投げ捨てて、瞬の許に駆けより、涙に暮れる弟を必死になって慰めだしたのである。

「あ……あー、瞬、泣くな。いい子だから。なんだ、この男、カッコばかりで、なんにもしとらんのか。それなら、俺も一安心――いや、不甲斐ない奴だな、本当に。武士の風上にも置けん! 実にけしからん奴だ!」

「…………」

武家の頭領に向かって、その言い草はなかろーが! と思いつつも、訳のわからない兄弟のやりとりに、ひたすらあっけにとられるばかりの氷河だった。





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