「兄一輝は、尾張藩付け家老成瀬様より一万石をいただいている城戸家の当主だったんです。一年前に、兄は尾張藩剣術指南役の候補にあがったのですが、やはり指南役候補にあがっていた田辺という者に謂われのない讒言を受け、城戸家はお取り潰しになりました。その際に我等兄弟は……」
「尾張藩の何者かから、俺を殺せば城戸家を再興させてやろうと言われたわけだな。それで、成瀬の推挙という形でおまえは江戸城にあがった……」
「はい……」

人払いされた中奥の一室で、今度こそ手討ちを覚悟して瞬は氷河に頷いた。
兄一輝は、とりあえず将軍“ご寵愛様”の兄ということで、老中の屋敷に客分としてお預かりになっている。
氷河に兄を処断するつもりがないらしいことが、瞬には唯一の救いだった。
実際に将軍暗殺の命を受けて江戸城にあがったのは自分であって兄ではないのだから、そして、兄が襲ったのは江戸城外にいるはずのない人なのだから、自分の命一つでこの事態を収めてしまうことは可能なはずだと、瞬は祈るような気持ちで思っていた。

「ふん。じゃあ、あの時感じた小宇宙……いや、殺気はそのせいだったわけだ」

あの時というのが、氷河が初めて大奥に渡ろうとして瞬を見初めた(ことになっている)時のことなのだと気付くのに、瞬は少しばかり時間を要した。

「殺気……僕は、そのようなものは……」
瞬は、あの時にはもう、将軍への殺意など抱いていないつもりでいた。
だが、不遇の兄への思いが、瞬の胸奥から完全には殺意を消し去ってくれてはいなかったのかもしれない。

「では、上様が僕をお召しになったのは、そのせいだったのですか」
「部屋に連れ込んで顔を見てから、あまりに美形なのでかえって動転したくらいだ」
「申し訳ございません……。そんなつもりは……。あの時にはもう、お家のために、何の関係もない上様を殺めることなどできるはずがない……と自分を納得させていたつもりだったのですが……」

瞬は、自分の未熟に恥じ入って面を伏せた。

「さっさと俺のものになって、俺におねだりすればよかったじゃないか。兄の汚名を晴らしてくれと」

その瞬の顎を捉えて、氷河がからかうように言う。
瞬は慌てて氷河の手を振り払った。

「そ…そんなことができますか! 僕は元服前とはいえ武士のはしくれ、ね…閨でおねだりなど、そんな不謹慎な!」

この期に及んで、まだ堅苦しいことを言っている瞬に呆れて、氷河は肩をすくめたのである。氷河は、閨で何をねだられようと、それが叶えてやってよいことなのかどうかの判断くらいは正しくできるつもりでいたのだ。もっとも、彼は、そんなことは決してしない子だと思えばこそ、瞬に惚れたのではあったのだが。

いくら『嫌なら嫌と申せ』と言われたとはいえ、よもや将軍に対して本当に『嫌です』と答える家臣がいるなどとは、氷河は思ってもいなかったのである。
実際に、瞬にその返事を貰うまで。
そして、そのつれない返事を貰った途端に、瞬に惚れてしまった氷河だったのだ。

「おかげで、俺はいつも悶々として夜を過ごす羽目になった」
「そ…そのようなお言葉は到底信じられません! 毎日嬉々として市中に出ていらしたくせに」
「俺は、おまえに既に言い交わした男か女がいるのだとばかり思って、ずっと我慢してたんだぞ。暴れん坊将軍でもして鬱憤を晴らさないことには、いつ狼になっておまえを襲ってしまっていたかわからんだろーが!」
「言い交わした者などいるはずないでしょう! 僕だってずっと、上様のお言葉は単なるお戯れだとばかり思っておりましたっ!」
「何故だ。俺はいつも真剣に……」
「上様は将軍様なんですよ! どんな無体なことをなさっても、それが将軍家の浮沈に関わるようなことでない限り、誰も何も申しますまい。それなのに、何もなさらないのは、本気でないからなのだとしか思えないではありませんか」
「だから言えなかったんだろーが! 相手が将軍だからという理由で当然のように身を任せてくる者など、愛しむ気にもならん! いっそただの素浪人だったら、どれほど気楽におまえに迫っていられたことか!」

「…………」

それはそうである。
瞬自身、氷河に『嫌です』と答える時には、お手討ちを覚悟した。
将軍に望まれたら、その望みに従うのが日の本に住まう者の義務である。その際に、将軍への好悪の感情など問題にする者はいない。
そして、大奥は、そんな不自然なことを当たり前と、むしろ光栄と思っている女たちのるつぼなのだ。


「なんだ、急におとなしくなって……」
「だから、上様は大奥を毛嫌いなさっているのですか」
「女の人権を無視したシロモノだろーが、あれは。俺の母も側室だったが、父の許に召し上げられる時は、否も応もなかったそうだぞ」
「……そうですね」
氷河のその気持ちは、瞬も側室の子だったので、わからないではなかった。
それどころか、正室だった兄の母も、他の側室たちと似たりよったりの状況だったと聞いていた。
江戸の市中で自由に恋を楽しむ町人たちを見るにつけ、彼らに羨望すら抱いていた瞬だったのだ。

瞬に、それは許されなかったから。


許されることではないと思っていたから。





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