そんなある日のことだった。

「俺はどれくらい稼いだんだ?」
と、氷河が突然言い出したのは。

沙織は今日も上機嫌である。

「そうね。財団に入ってきた売上は十数兆円、収入は十兆を少し切るくらいかしら。でも、まだまだいけそうね。次回公演の『マクベス』でもう一稼ぎできそうだし」
「それは、俺と瞬が一生食っていけるくらいの金額か」
「遊んで暮らしていけるわよ。今時のサラリーマンの生涯賃金の数千倍ですもの。何か欲しいものでもあるの? 家でも車でもヨットでも宝石でも何でも買ってあげるわよ?」
「いや、別に俺には欲しいものなどない」
「まあ、欲がないのね。氷河って、お金に執着しない芸術家タイプだったのね」

「…………」

それは違うと星矢と紫龍は思っていた。
確かに氷河には物欲、金銭欲、名誉欲はないかもしれない。
だが、彼は、人間が生きていく上で最も重要な三大欲求、そのうちの一つが他の欲望の全てを凌駕しているだけなのだ。

しかしながら、今の星矢たちには沙織の大いなる誤解を正す元気もなかった。
ここ一年の間、彼等は、マチネーとソワレ、一日二公演をほぼ休みなしで続けてきた。
いくら聖闘士と言えども、体力と精神力には限界がある。
毎回主役級の役どころを務めてきた上、夜のお務めもさぼらせてもらえない瞬は言うに及ばず、立ち木役ばかりの星矢と紫龍でさえ、その疲労は頂点に達していた。
誰よりも疲れているはずの氷河がまるで疲労を訴えないことの方が、むしろ彼らには異常に思えていたのである。

もっとも、瞬は、これまで自分の疲れを氷河に訴えたことはなかった。
氷河が蔦葛歌劇団の活動に疲れを感じていないということは、もしかしたら、彼がその仕事を好きだからなのではないか――瞬はそう思い始めていたのである。氷河は、舞台のプロデュースという才能に目覚めたのかもしれない――と。
だから、瞬には、疲れを訴えたりすることで、氷河の意欲や才能に水を差すことはできなかったのだ。


「ただ、時間が欲しい。俺と瞬がのんびりできるだけの」
「え?」

氷河の欲しいもの。
それは、今の彼にはとんでもなく贅沢なものではあった。
とんでもなく贅沢なものではあったが、沙織は、その希望をにべもなく拒否するわけにもいかなかった。
氷河が財団にもたらしてくれた利益の額を思えば、多少の無理をしてでも、それくらいの要望は叶えられてしかるべきものである。

「あ、そうね。たまには休養が必要ね。いいわ、特別サービスで来月オフの日を一日とってあげる。それで、次回の『マクベス』の構想をじっくり練って、これまで以上に素晴らしい舞台を――」

「永遠にだ」

沙織には、氷河が何を言っているのかがすぐには理解できなかった。
否、なぜ彼が今そんなことを言い出せるのかが、である。

「……急に……何を言い出すの、氷河?」
「それくらいは稼いだんだろう。俺と瞬が一生遊んで暮らせる分は」
「それは……まあ、88星座の聖闘士全員の一生の生活費の数十倍くらいにはなってるわ」
「ならこれ以上馬鹿を演じる必要はない」

それは既に氷河の中で、覆ることのない決定事項になっているようだった。

「氷河 !?  稼ぐ必要がなくなったからって、『もうやーめた』で終われるほど世の中は単純にはできていないのよ!」
「しかし、俺はもうやめる。必要な分は稼いだんだ、文句はないだろう。俺は明日からは瞬としたいことだけして暮らすぞ」

確かに、氷河は既に、歌劇団創設時に沙織が見込んだ以上の利益を財団にもたらしてくれていた。
それは、普通のサラリーマンが一生をかけて稼ぐ金額の数千倍に達してもいる。
その点で、沙織はもう氷河に対して、『働かざる者、食うべからず』の理論を振りかざすわけにはいかなかった。

「これまでだって、ずっと我慢してきたんだ。これ以上瞬を見世物にしておけるか」
「で……でも、何もこんなに売れている時にやめることはないんじゃないの? せめて、『マクベス』を終えてから……4大悲劇を全部演ってから――。せっかくの才能なのよ。自分の才能を発揮できる場所を捨てるなんて惜しいと思わないの」

「別に」

氷河の返答は実にあっさりしたものだった。
その返答には、この馬鹿げた“仕事”にうんざりしきっていた星矢や紫龍ですら、素直に納得することができなかったのである。

瞬に至っては、氷河の決断に混乱まできたしていた。
「氷河、沙織さんの言う通りだよ。氷河はすごいプロデュースの才能があるんだと思う。お金の問題なんかじゃなくて、せっかくの才能を無駄にするつもりなの…!」

「才能なんかじゃない。俺は、ただ、おまえを――ジュリエットを、オフィーリアを、デスデモーナを幸せにするにはどうしたらいいかを考えただけだ。マクベス夫人を幸せにしようなんて思わない。おまえには冷酷で残忍なマクベス夫人は演れないだろ? おまえじゃない奴の幸せなんて、俺にはどうでもいいことだ」

「……氷河」

瞬には、氷河の言葉を喜ぶべきなのか嘆くべきなのかがわからなかった。
それ以前に、まだすっかり彼の言葉の意味が理解できていなかった。

星矢の方が、この点に関しては瞬よりもずっと理解が早かった。
「あ、なーるほどねー。そーゆーやりくちだったわけかー。まさか氷河に演出だのプロデュースだのの才能があるわきゃないと思ってたんだけど、瞬のためって考えれば、どんな大胆なことだって氷河なら思いつくよなー」

紫龍もまた、星矢の言葉に深く頷く。
「いやー、俺も信じかけていたぞ。おまえには本当に演出の才能があるんじゃないかと。そうか、そういうわけだったのか」

二人は揃って納得し、顔を見合わせ、そして、ハモった。
「氷河に瞬のこと以外の才能があるわけないよなー」
――と。


瞬もここに至ってやっと、氷河の“才能”の源が何だったのかを理解した。
戸惑いつつも、感に堪えないような眼差しを氷河に向ける。
「氷河……」

氷河は瞬の恋人として当然果たすべき義務を果たしただけだという顔で、瞬の熱っぽい眼差しの理由もわかっていないようだったが。

沙織も、ここまで言われてしまうと、氷河に“仕事”の続行を無理強いできないことは悟れてしまう。
「してみると……へたに『マクベス』を演ったりした日には、蔦葛歌劇団がこれまで築きあげてきた評価を瓦解させることにもなりかねないわけね」
そうなれば、既にかなりの市場を構成しているこれまでの蔦葛関連商品の売上にも響くかもしれない――。

沙織は女神であると同時にまた、優れた経営者でもあった。
彼女は自分の頭の中で、素早く計算したのである。

この短期間に蓄えてきたたくさんの(とんでもない)脚本群。
これから数年間は、その脚本を他のもっと演技力のある俳優に演じさせることで、間を持たせることができるに違いない。それは、話題作りにもなるだろう。
そして、その先は――。
「いいわ。でも、氷河、あなたの脚本は蔦葛歌劇団以外に使用許可を与えないでちょうだい。財団は、あの脚本を演じられる役者の育成に励むことにします」

さすがは女神アテナである。
彼女は見切りも早ければ、立ち直りも早かった。かてて加えて、実に前向きでもある。
個性の塊りである聖闘士たちを統べるのに、彼女ほど優れた人物は他に存在しないに違いなかった。





【next】